1944年(昭和19年)5月、大本営は第31軍を編成し、小畑英良(お
ばたひでよし)中将を司令官にしてサイパン、グァム、トラック、パラオ、硫
黄島に10万人を配置した。

これを「絶対国防圏」と称して、最後の抵抗を試みた。

 アメリカ軍は1943年(昭和18年)11月、マキン・タラワ島占領、1
944年(昭和19年)2月、ルオット・クエゼリン島を占領して、反攻作戦
の足場を確保した。

 南洋貿易も軍の要請によって、南洋興発の傘下に入った。

 ポナペ島にいた元南洋貿易支店長の市川は、

「アメリカ軍が攻めてくるのは、時間の問題だ!われわれは日本軍と協力して、
玉砕覚悟で戦うのだ」

 と、社員に檄を飛ばした。

「支店長、それは分りましたが、われわれには武器弾薬、食料が不足していま
す。どうして戦うのですか?」

「竹槍で戦え!一人でも多くのアメリカ兵を道連れにするのだ!」

 市川が答えると、社員たちは意気消沈した。

「これはだめだ、竹槍でアメリカ兵を殺せるものか」

 5月、アメリカ軍の艦船が、ポナペ沖に出現した。

「大艦隊だ!上陸してきたら、われわれは全滅だ!」

 ポナペ島守備隊2000名は、全滅を覚悟した。

 しかし、10日後、艦隊は姿を消した。

「助かった、アメリカ軍は、どこへ行ったのか?」

 拍子抜けした市川が呟くと、

「サイパンだ、サイパン支店が危ない」

 と、若い社員が叫んだ。

「サイパン?今井が危ない、これは大変だ」

 市川が叫ぶと、社員は気の毒そうに言った。

「助かる見込みは、皆無ですよ。お気の毒です」

「何ということだ、全滅覚悟のわれわれが命拾いをして、絶対国防圏内の今井
が死ぬなんて!」

 市川の嘆きに、社員一同、サイパン支店員の冥福を祈った。

 

元南貿(現南洋興発)パラオ支店では、大下支店長が支店長会議に出席のた
め、東京に向かった。

「支店長、機雷がばらまかれている海を渡るのは危険です。出席を取りやめて
ください」

 小田部長が言うと、

「しかし、今内地は大変だ。死を覚悟してでも出席しないとね、内地では、も
う売るものがない状態だ。アメリカ軍の空襲で、工場地帯は壊滅している。な
んとかして、物資を送ってやらんと、南洋貿易は終わりだよ」

 と、大下が答えた。

「小田君、僕は帰れないかもしれない。パラオ支店のことは、君に任せる。よ
ろしく頼んだよ」

「わかりました。後のことは心配なさらずに、出発してください」

 小田の激励に、大下は頷いた。

 大下は14日後、無事に横浜港に到着した。

「アメリカの潜水艦がうろうろして、ジグザグ航海だった。無事で良かったよ」

 埠頭に出迎えた英子に、大下は笑顔で答えた。

 しかし、大下が生きてパラオに戻ることは、二度となかった。

龍田丸も、アメリカ潜水艦に撃沈され、長い航海歴を閉じたのである。

 フィリピンの友野ブラザーズも、苦境に陥っていた。

ミンドロ島では、梶社長が、

「一体どうなっているのだ、海軍も陸軍も法螺ばかり吹いている。戦況は日に
日に不利になっているのに、大丈夫、心配するな、一点張りだ」

 と、嘆いていた。

 浜野専務が、気休めを言った。

「山下総司令官が来島したから、フィリピン防衛は大丈夫でしょう」

「わかるものか、ここでも連合軍側のゲリラが活発だ。先日も、工場が放火さ
れたよ」

「海軍警備隊は、眠っていたのですか?」

「士気は低いね、このままでは、工場の爆破が心配だよ!」

「社員を動員して、監視態勢をとりましょうか?」

「そうしてくれたまえ、友野ブラザーズも、いまやミンドロ島の石鹸とヤシ油
が生命線だ」

「社長、資産を内地へ移しておいた方が、よくないですか?」

「そうだな、軍票はやがて紙屑になる。軍票の処理を急いでくれたまえ」

 梶社長の指示を、浜野は大急ぎで取り組んだ。

 この資産保持処置をとったことにより、友野ブラザーズは戦後も生き延びた。

 

サイパン島では、今井や飯塚を中心に、収容所生活が円滑に進んでいた。

 清掃活動や食事作業など、自分たちにできる仕事を、自主申告させて割り振
りしていた。

 百合を中心に、医療活動に従事するグループも、活動を開始していた。

「皆さん、元気になってきましたね、なによりです。おふたりの指導の賜です」

 ダニエル・マツイが感心して言うと、今井や百合は答えた。

「日本人は、勤勉で協調性があります。生きて虜囚の辱めを受けず、といった
誤った戦陣訓(せんじんくん)のせいで、命を粗末にしました。生きてさえい
れば、必ず復活する民族です」

「なるほど、戦争は人間を変えてしまうのですね。わたしは日本人の復活を支
援するために、必ず日本に行きます」

 マツイが言うと、二人は深く頭を下げた。

 飯塚はまだ投降しない日本兵を、投降させる仕事を続けていた。

「日本軍の皆さん、皆さんに死んで虜囚の辱めを受けず、と命令した東条首相
は辞任しました。皆さんを縛りつけていた戦陣訓は、無くなったのです。皆さ
んは、よく戦いました。捕虜になっても、不名誉ではありません。食料と水を
与えますから、いますぐ出て来なさい、アメリカ軍は、決して殺しません」

 密林でこれを聞いていた河田(かわだ)大尉は、ひとつの謀略を思いついた。

「そうだ、偽装投降をして収容所を攪乱しよう。おい、横田(よこた)軍曹、
話がある」

「大尉殿、何でしょうか?」

「貴様は、偽装投降をして、あの裏切り者を殺せ」

「裏切り者?ああ、南洋興発社員の飯塚ですか?」

「そうだ、南洋興発は、国の資金援助を受けて発展した会社のくせに、国を裏
切るとは不逞の輩だ」

 河田は、怒りに満ちた表情で、横田軍曹に命じた。

「わかりました、必ず飯塚を殺して、帝国軍人の忠誠心をアメリカ軍に見せて
やります」

 横田は翌日、アメリカ軍に投降した。

「横田軍曹、河田部隊所属です、投降します」

 飯塚は喜んで、横田を迎えた。

「横田さん、よく決心してくださいました。これで、河田部隊も投降が進みま
す。ひとりでも、多くの日本兵を救うことが私の願いです」

「飯塚さん、わたしも協力します。河田部隊を救済しましょう」

 横田が、飯塚の手を握ると、飯塚は感激した。

「横田さん、ありがとうございます。収容所では、みんな生き生きと活動して
います。皆さん、横田さんを歓迎しますよ」

 と、飯塚は、うれしそうに言った。

 しかし、横田はあいまいな表情で頷いた。

 収容所では、今井と百合が、横田を歓迎した。

「横田さん、よく投降してくれましたね。戦争は間もなく終わります。フィリ
ピンも落ちましたし、沖縄も負け戦です。大本営は、本土決戦を叫んでいるよ
うですが、その前に戦争は終わりますよ」

 と、今井が言うと、横田は反問した。

「その情報は、だれから聞きましたか?」

「アメリカ軍のダニエル・マツイ中尉からです。ダニエルは、日本の復興を支
援したいというアメリカ人です。真実を知らせてくれます。決して嘘をついて
はいないのですよ」

「大日本帝国が、簡単に降伏するでしょうか?日本国民は大元帥陛下のために、
最後の一兵まで戦うのではないですか?」

 と、横田が言うと、今井は笑って答えた。

「あの東条首相でも、辞めさせられたのですよ。いまは鈴木内閣です。終戦を
進める和平派が、政権を握っています」

「ほう、鈴木貫太郎(すずきかんたろう)大将が首相ですか!」

「そうです、陛下の信頼が厚い宰相です。終戦は間もなくですよ」

「それは良かった、私も安心です」

 と、横田が答えると、今井は横田を激励した。

「ともに頑張りましょう!」

 その夜、鉄条網をくぐって河田の部下が、横田の宿舎を訪ねてきた。

「隊長殿は、飯塚殺害を急ぐように催促している」

「隊長殿に伝えてくれ、鈴木貫太郎が首相に任命された。海軍の対米従属派だ。
終戦も間近いぞ」

 横田が囁くと、河田の部下は、頷いて軍用ナイフを手渡した。

「これで、やってください」

「わかった、隊長によろしく伝えてくれ」

「頑張ってください」

 日本兵は、密林に戻っていった。

 

翌朝、マツイは、飯塚と横田を伴って、河田部隊の投降工作に出かけた。

 ジープから拡声機を降ろすと、飯塚は横田に言った。

「横田さん、河田部隊の基地に案内してください」

「わかった、こちらです」

 横田は密林に分け入り、30分ぐらい歩いた。

 タッポウチョ山沿いの渓谷に、その基地はつくられていた。

「あの山腹の洞窟が、河田部隊の基地です」

 横田が言うと、マツイは海兵隊員を展開させた。

「横田さん、河田部隊に、降伏を呼び掛けてください」

 飯塚が拡声機を渡すと、横田は突然ナイフを取り出して、飯塚を刺した。

「裏切りもの、死ね!」

「何をする!」

「裏切り者、天誅だ!」

 横田が悪鬼の形相で、ナイフを何度も突き刺した。

「オウ、ノウ、アンビリーバブル!」

 マツイが叫ぶと、横田は日本軍基地を目指して、駆けだした。

「やった、裏切り者を殺したぞ!」

 横田が叫びながら、基地にむかって走った。

マツイは、海兵隊員に命じた。

「撃て!」

 海兵隊員の自動小銃が、いっせいに火を噴いた。

 横田は、もんどりうって倒れた。

河田部隊からも、応戦の射撃が起こったが、散発的で擁護の熱意にかけてい
た。

「なんたることか!日本人は人間ではない」

 マツイは叫ぶと、飯塚を背負ってジープに急いだ。

 収容所では、百合が飯塚の様子を見て驚愕した。

「どうしたのですか、これは!」

 マツイが、横田の裏切り行為を説明すると、今井は驚いて答えた。

「河田大尉は、頑固な軍人精神の持ち主だ。かれが、飯塚君と横田軍曹を無駄
死させた。こんな軍人が生き残るようでは、戦後の日本は平和になるのだろう
か?」

「飯塚さんは、気の毒だったわ。民間人の救済のために全力を尽くしたのに、
殺されるなんて」

「戦争は、理不尽なものだな」

「まったくね、二度と起こしてはならないわ」

 飯塚の死体を眺めながら、二人は反戦を誓った。