1949年(昭和24年)、東京の元南洋貿易本社で、後藤社長が大下、市川、
今井ら復員してきた役員を前に、今後の方針を話し合っていた。

「先日、GHQの経済科学局に、南洋興発の大林(おおばやし)社長が呼ばれ
て、解散を命令された。国策会社であった南洋興発は廃止され、われわれは民
間会社として新たに出発することになった」

「社長、ついに南興傘下から離脱できますね」

 大下が勢い込んで言うと、後藤はため息交じりに説明した。

「そうなのだが、状況はかえって悪くなったよ。残念ながら、南洋はアメリカ
の委任統治領になり、われわれが開拓した南洋は、アメリカのものになってし
まった。われわれは手出しができないのだよ」

「そんな馬鹿な!じゃ、わたしはパラオに、戻れないのですか?」

 大下が、驚愕して訊ねた。

「残念だが、南洋庁やパラオの公共施設は、アメリカが破壊したそうだ。パラ
オ支店も、ブルドーザーで破壊されたと聞いている」

「ああ、悪夢だ!」

 大下は、椅子にもたれたまま、動けずにいた。

 今井は、大下に言った。

「ダニエル・マツイの情報では、国策会社は戦争に協力した罪で裁かれるそう
です。わたしたちは、南洋でいい夢を見させてもらった、と思います。しかし、
南洋はやはり先住民のものです。南洋の将来は、先住民たちに委ねれば、よい
のではないですか」

「それはそうだが、われわれは先住民を差別せず、彼らの福利厚生・教育を向
上させたがね」

 と、大下は、無念そうに言った。

「わたしは、戦後日本が他国を植民地にしない平和国家になることが、彼らに
対する償いだと思います」

 と、今井が言うと、市川が反論した。

「しかし、南貿が復活できる可能性を捨ててはいけない、と思います。とりあ
えず、われわれの得意とする海上保険業務を立ち上げませんか?」

「そうだね、市川君の提案通り、保険業務から始めよう」 

 と、後藤が、会議を締めくくった。

 しかし、戦争で多くの貨物船が沈没した海運業界は、不況に喘いでいた。

「日本郵船に行ってきましたが、今のところは間に合っている、と断られまし
たよ」

 市川が、落ち込んだ顔で言った。

「保険業の前途は、厳しいね。わが社は、やはり貿易を重視すべきだ」

 後藤社長が思案顔で言うと、今井が提案した。

「ダニエル・マツイに、相談してみましょうか?かれなら良い知恵があるかも
しれません」

「そうしてくれたまえ、頼んだよ」

 今井はGHQ本部に、マツイ中尉を訪ねた。

「中尉、わが社は今苦境に陥っています。貿易中心に、社業を復活させたいの
です。力を貸してください」

「それは大変ですね。南洋貿易はサイパン島で、どんな商品を販売していたの
ですか?」

「食料品や雑貨が中心でした」

「そのなかで、先住民に人気のあった商品は何ですか?」

「『カニヤ』の乾パンでした」

「それを売り出したら、どうですか?わたしがアメリカ海軍に連絡を取ってみ
ましょう」

 マツイ中尉は、海軍に依頼することを約束した。

 

1950年(昭和25年)、南貿本社を一人のアメリカ人が訪ねてきた。

「わたしは、アメリカ海軍の経理少佐ドナルド・ダグラスです。南洋諸島の委
任統治を担当しています。ミクロネシアの先住民たちが、昔と同じ乾パンを希
望しています。貴社で扱っていた、と聞き及びましたが、今でも手に入ります
か?」

「ミクロネシアでの乾パンは、『カニヤ』の乾パンです。残念ながら、日本で
は製造しておりません」

 営業部長の小田が応じると、ダグラス少佐は、100万円(現在価格で約4
000万円)の小切手を差し出した。

「では、この100万円で、『カニヤ』の乾パンを輸入してください、頼みま
したよ」

「乾パンなら、アメリカ製のおいしい乾パンが、あるではないですか?」

「いいえ、アメリカ製の乾パンは、ミクロネシアでは不評なのです。かれらは
日本が支給した乾パンが食べたい、というのです」

「分りました、さっそく取り寄せます」

「急いで下さい」

ダグラスは、笑顔で小田に手を差し出した。

 小田は、カニヤ製の乾パン探しを始めた。

 イギリス商社が、在庫品を保有しているとの情報を得た。

「100万円の大商いだ、これで南貿は立ち直れるぞ」

 後藤社長は、喜んでカンパン探しを督励した。

 今井は、病気休養中の大下を訪ねた。

ダグラス少佐の依頼を報告すると、

「今井君、われわれの商売の仕方は、間違っていなかったのだね。倉本社長の
方針のもとに、先住民の利益を重視して貿易をしてきた。かれらは、われわれ
の気持ちを汲んでくれたんだよ」

 と、涙を浮かべて喜んだ。

「そうですよ、大下さん、われわれは間違っていなかったのです」

「わたしはね、死んだらパラオに骨を埋めてもらいたい。南貿の支店のあった
場所にね、頼むよ、今井君」

「わかりました、必ず御希望に添わせていただきます」

 大下は、今井に頭を下げた。

 大下の死後、英子は父の遺骨を持って、サイパン島に帰国した。

「父をサイパン島の土に返してあげられ、親孝行ができました」

 英子は、南洋貿易の本社を訪ねると、今井に報告した。

 小田の努力で、カニヤの乾パンは、ミクロネシアに届けられた。

「『カニヤ』の乾パンは、マリアナ諸島で、大評判をとっています。先住民は、
日本国の南洋統治を慕い続けており、日本人との混血児が、大切にされていま
す。アメリカ合衆国による委任統治は、日本国の統治を参考にすべきと愚考致
します。御社が南洋貿易に関心を持たれるなら、合衆国海軍は尽力いたします」

 ダグラス少佐から、懇切丁寧な礼状が届けられた。

「やはり、南貿は、南洋を目指すべきだね。南洋貿易を拡張して行こう」

 後藤社長は、今後の経営方針を南洋に定めた。

 

一方、友野ブラザーズの戦後は、不遇だった。

友野社長は、「帰らざる遺骨」の返還運動に邁進した。

 1943年(昭和18年)にニュージーランドのフェザーストーン収容所に
収容されていた友野ブラザーズの社員が、飛行機事故で遭難したのである。

 ニュージーランド政府が、日本人の収容者をオーストラリアのカウラ収容所
に、移住させる途中で起きた事故だった。

 6月2日、友野ブラザーズの社員である上田三兄弟、更江(さらえ)、北、
山本の6名が乗った輸送機が、オーストラリアのカウラ近郊で墜落したのであ
る。

 6名の遺灰が、オーストラリア政府によって、シドニー本社社長の小島喜代
造に届けられた。

「遺骨を返してほしい、遺骨がなければ、成仏できないではないか」

 家族からの要請もあって、友野は遺骨の返還を、オーストラリア政府に求め
た。

 しかし、遺骨は返還されず、友野は日本外務省に返還請求を出した。

 外務省は、友野の意向に沿って尽力したが、ついに遺骨は所在不明のままで
終わった。

「このままでは、死者の霊が浮かばれない。南洋貿易にわが社の復活を賭けよ
う」

 友野は、大阪で友野物産という商社を経営し、南洋進出への熱意を示してい
た。

戦前の海軍のような後ろだてのない現状では、戦前の規模を回復するには困
難が多かった。

「わたしは、必ず友野ブラザーズを再建する!」

 と、友野は亡くなるまで、南洋貿易復活を探っていた。

南洋興発は、GHQの閉鎖命令を受けて解散した。

南興社員であった辻内は、戦争中は海軍軍属として再びアロー島に渡った。

そこで水先案内に当たっていたが、日本の敗戦を受けて捕虜となった。

戦後、復員してきた辻内は、マラリアを発症して、41歳で他界した。

南洋を駆け巡った波瀾万丈の生涯であったが、日本の国策に翻弄された一生
といえる。

梅沢は、復員後内地で商売していたが、貿易制限が解除されると、ふたたび
アンボン島に渡った。

梅沢にとって、アンボンは第二の故郷であった。

「わたしは、アンボンの土になる」

 というのが、梅沢の口癖だった。

 梅沢は希望通り、アンボンで他界した。

 その墓は、日本に向かって建てられた。

南洋興発子会社の日本真珠は、有限会社として存続した。

 1948年(昭和23年)6月、日本真珠採取株式会社として営業を再開
した。

 しかし、真珠貝採取は認められず、水産加工品の小売や水産物の運搬が主
たる業務であった。

1952年(昭和27年)、マッカーサー・ラインが撤廃され、日本漁船の
遠洋漁業が認められた。

真珠貝採取業界は、水産庁と協議して新会社を設立した。

 国策として、アラフラ海真珠貝採取事業に踏み切った。

 12月5日、新会社設立総会の役員と事業概要は、以下の通りである。

資本金 二万円

 役員 社長  大林得一(元南洋興発社長)

   常務  友田 隆(元日本真珠役員)

    取締役 綾野俊夫(元南洋興発社員)

   監査役 大橋新次郎(元南洋庁拓殖部長・参議院議員)

   同   中井勝男(元南洋興発役員)

   相談役 北野健太郎(元南洋庁長官)

上野精養軒(せいようけん)で行われた設立総会は、南洋一家の復活を示す
ものとなった。

元南洋興発社長の大林は、以下の抱負を語った。

 「皆さん、敗戦後7年がたちました。この間、われわれは南洋貿易の復活を
GHQに要請し、政府に陳情して参りました。やっと、念願が叶い、ここにア
ラフラ海真珠貝採取株式会社の設立に至りました。この間の諸兄の尽力に深く
感謝するとともに、願いもむなしく逝かれた同志諸君の御霊を悼みたい、と思
います。

 思えば、南洋庁の設置、南洋興発の設立など、南洋諸島への日本国の貢献は
絶大でありました。住民への福利厚生、教育の充実は、現在でも高く評価され
ております。住民の日本への思いは深く、日本国統治の復活を願っておると、
聞き及びます。

 今こそ、魂を込めて社業を発展させましょう。皆さんの御尽力に期待いたし
ます」

 大橋は、感激の涙を浮かべて、この挨拶を聞いていた。

「大橋君、頼んだぞ、ぜひ事業を成功させてくれ」

 後ろから肩をたたいた人物は、北野健太郎(きたのけんたろう)元南洋庁長
官であった。

「あっ、長官、永らく御無沙汰しております」

 慌てて挨拶する大橋を、北野は激励した。

「新会社は、南洋一家の勢ぞろいだ!これで怖いものなしだね」

「有難うございます、以後ともよろしくご指導ください」

「老兵は消え去るのみだ。わたしは、若い者の邪魔をしないように気をつける
よ」

 大林社長が、話の輪に入ってきた。

「長官、引退はまだ早いですよ。顧問として、南洋統治の知恵をお貸しくださ
い。良きアドバイスを期待しています」

「南興の猛者(もさ)」にいわれると、こそばゆいね」

「長官の御鳳声は、威力絶大ですよ」

「わっ、はっ、は、じゃ、僕はまだまだ引退できないわけだ」

 北野が嬉しそうに、笑声を上げた。

 会場は、南洋貿易復活の熱気にあふれていた。

 

1953年(昭和28年)5月14日、とうとうアラフラ海真珠貝採取出漁
の日が来た。

 25隻のダイバーボートが、串本港に勢揃いした。

 串本高校体育館で、400名の参加者による壮行会が開かれた。

 主催者の和歌山県知事尾野信一は、

「25年前、トンガ王国の依頼でトンガ丸を建造し、トンガに回航しました。
受取を拒否され、困惑した思い出がございます。しかし、トンガ丸は南洋貿易
で大活躍し、十分に使命を果たしました。ここに、ふたたび南洋に進出し、我
が国の経済発展の基礎を築くことができるのは、望外の喜びです」

 と、挨拶した。

 参議院議員大橋新次郎は、

「ふたたび南洋事業が、実現できました。ここに至る過程には、明治初めの南
島商会、南洋貿易、友野ブラザーズ、南洋庁、南洋興発など、さまざまな先人
の活躍や苦労がありました。太平洋戦争の敗北によって、先人の築いた偉業は
喪失しましたが、いまふたたび南洋事業が復活されようとしています。われわ
れ手で、南洋を戦争の海から平和の海へと変えていこうではありませんか!」

 と、演説した。

 会場から、万雷の拍手が湧きあがった。

 正午、数千人の見送りを受けて、25隻の船団はアラフラ海を目指して出港
した。

「万歳!万歳!万歳!」

 歓呼の声を背に、船団は南洋を目指して、水平線のかなたに消えていった。

 それは、南洋貿易の復活を象徴していた。

                                    

参考文献

 ・串本町史

 ・日置川町史