南洋開発が盛んになるにつれ、さまざまな会社が南洋貿易に進出した。

 それらの会社は、コプラ産業、製糖業、鰹節製造、リン鉱石の採取に進出し
た。

 リン鉱石は鳥の糞が固まったもので、「グァノ」と呼ばれ高級肥料になった。

 これは7万トン余り生産され、莫大な利益をもたらしたが、あっという間に
枯渇した。

 これらの後発会社は、朝鮮半島や沖縄から労働者を集めた。

日本人との賃金差別によるストライキの頻発、害虫、胴枯れ病による砂糖黍
の減産、第一次世界大戦後の砂糖価格の暴落らが重なり、経営難に陥る企業が
続出した。

 飢餓線を彷徨う住民が出てきたため、国際世論は日本の南洋統治能力を疑問
視しだした。

 1921年(大正10年)、原敬(はらたかし)首相は、国策会社東洋拓殖
(とうようたくしょく)の石塚英三(いしづかえいぞう)総裁に問題解決を相
談した。

「石塚君、欧米の新聞は南洋の食糧問題を非難しておる。失業者救済措置をと
ってくれないか」

「首相閣下、わたしも南洋問題を心配しておりました。さいわい拓務省(たく
むしょう)の部下に適材がおります。杉田秋次(すぎたしゅうじ)君ですが、
かれは優秀です。かれに新会社の社長をやらせ、失業者を救済しましょう」

「そうか、政府も全力をあげて援助しよう」

 首相のお墨付きを得た石塚は、東洋拓殖を本体に西村拓殖(にしむらたくし
ょく)と南洋殖産(なんようしょくさん)を吸収して、南洋興発(なんようこ
うはつ)株式会社を設立した。

 新会社は、資金と経営人員を東洋拓殖が提供し、本店はパラオ島コロール、
支店は東京に置いた。

 杉田新社長のもとで再出発した南洋興発も、前途は多難であった。

出荷した砂糖が、関東大震災の火災で全焼した。

「なんということだ!せっかくの砂糖が、火災で大損害だ」

「これでは、新会社は再建できません。ぜひ、首相に進言して国庫補助金を頼
んでください」

「わかった、即刻、東京へ行こう!」

 関根専務の依頼を受けて、杉田は東京に出発した。

「杉田君、心配するな、南洋興発を見捨てやせんよ」

 原首相が請け負ってくれ、杉田は安堵してパラオに戻った。

「諸君、安心してくれ、政府は南洋興発を見捨てない、という保証を得てきた。
困難に負けないで前進しよう」

 杉田の檄に答えて、社員一同奮闘しだした。

 1922年から1931年にかけて、国庫補助金は以下の通り支給された。

 農業関係 656万円

 漁業関係 86万円

 商業関係 137万8000円

 コプラ製造 255万8000円

 南洋貿易会社補助金 371万9000円

 総額 2099万2622円

 現在価格にして、約500億円の補助金が注ぎこまれた。

その結果、南洋興発の経営は、次第に軌道に乗り始めた。

1922年(大正11年)に「南洋庁(なんようちょう)」が設置されると、
南洋庁の官有地900ヘクタールを借地して製糖業に従事しだした。

とくにサイパン島チャランカノア地区に設置されたサイパン製糖工場は、四
本の高い煙突が名物で、抜群の業績を上げた。

関根専務が、杉田に語りかけた。

「社長、南洋航路の船員たちが、こんな噂をしております」

「どんな噂だね?」

「サイパン島上空の煙は、金を燃やしている煙だ。砂糖で儲かってしょうがな
いので、札に火をつけて燃やしているそうだ」

「馬鹿な!こちらは資金繰りで苦労しているよ」

 と、杉田は笑顔で答えた。

杉田は、まじめな面持ちで関根に命じた。

「それはそうと、関根君、南洋興発開発10年計画は出来たかね?」

「はい、練りに練りあげました。これが実現すれば、南洋興発は満鉄にまけな
い大会社に成長いたします」

 関根が提案した事業計画は、以下の内容であった。

 製糖業 サイパン、テニヤン、ロタ

 酒精工場 ポナペ

 燐鉱石工場 ロタ、ペリリュー

 デンプン工場 ポナペ

 製紙工場 ヤップ

 真珠養殖 コロール、ポナペ

 ナマコ漁業 パラオ、ヤップ、トラック、ポナペ

 高瀬貝漁業 パラオ、ヤップ

 事業所 10か所設置

 子会社 20か所設立

南海汽船、海洋殖産、南方産業、南洋石油、南洋ドック、南洋交
通、南洋毎日新聞、南洋興発合名、南太平洋貿易、マニラ醸造、
東インド水産、日本真珠、マカッサル水産、SAPT

総事業費 2100万円(現在価格で約500億円)


 杉田は瞠目した。

「なんとも壮大な規模だね、これでは、大風呂敷といわれた後藤新平伯爵以上
だ!」

「これが実現すれば、南洋庁の財源も自主的に賄えます。そうなれば、南洋興
発は『海の満鉄』と呼ばれる会社になります」

 関根専務の説明に、杉田は感動した。

「『海の満鉄』か!いいねぇ。関根君、石にかじりついても実現しよう」

「社長、頑張りましょう。南洋興発1600名の全社員が尽力いたします」

 二人は、固く握手した。

 南洋興発は、1932年(昭和7年)には、関係会社社員を含めて5万人の
大会社に成長し、「北の満鉄、南の南興」と賞賛された。


1938年(昭和13年)南洋庁拓殖部長大橋新次郎(おおはししんじろう)
が、杉田を表敬訪問した。

「杉田社長、御発展おめでとうございます。本日は南洋庁長官の依頼で訪問い
たしました」

「ほう、長官の御依頼なら、全面的に承諾するしかありませんな」

「じつは、南興から出港税以外に営業税、所得税を課税したいのです」

「えっ、税優遇策は廃止ですか?」

「じつは南洋庁の年間予算は、600万円(現在の150億円)ですが、これ
を独自に賄うように拓務省から要請されたのです」

「事情はわかりましたが、御期待に添えるかどうかわかりませんよ」

「いま南洋貿易は輸出が4700万円、輸入が3166万円、黒字が1534
万円あります。そのうちから、600万円を南洋庁の予算に編入したいのです」

「残りの900万余りが、われわれの利益となるわけですね」

「そうです、ここは大南興の度量を見せていただきたい。この予算は公教育の
充実に使われます。成績優秀な先住民の子弟を東京に留学させたいのです」

「わかりました。我々は全面的に協力いたします」

「長官に代わって、お礼申し上げます」

 大橋が帰ると、杉田は関根専務を呼んだ。

「関根君、ついに恩返しの時期が来たようだ。先ほど大橋拓殖部長が来社して、
税の優遇措置を廃止すると通告してきた」

「えっ、それは唐突ですね、承知できません」

「いや、わたしは承諾した。わが社もやっと御国に御奉公できる存在になった
のだ」

 と、杉田が諭すと、関根は謝った。

「社長の御心を拝察できず、申し訳ありません」

「謝ることはないよ。ここまでこれたのは、君の力量が大きかった。感謝して
いるよ」

 南洋興発の立役者たちは、南洋発展の未来に確信を持った。