南洋興発はマルク(モルッカ)諸島アンボン島に、アンボン事業所を置くこ
とを決めた。

「梅沢君、君をアンボン事業所所長に任命する。アンボンで木材を扱ってほし
い」

 と、関根専務が梅沢に命じた。

「喜んで参ります。わたしは、南洋のチークやラワンで大商いをしたかったの
です」

 と、梅沢秀雄(うめざわひでお)は答えた。

「そうか、期待しているよ」

と、関根が笑顔を向けた。

 マルク諸島のセラム島、カイ諸島、アルー諸島とその東にあるニューギニア
島は、鬱蒼(うっそう)たる熱帯雨林に蔽われており、ラワン材やチーク材の
大木が密生していた。

ラワン材やチーク材は、高級家具の材料として欧米や日本で重宝されていた。

 梅沢が事業所を開設したアンボンは、良港に恵まれて、マルク諸島の交易の
中心都市であった。

 アンボン市は、2007年現在、人口426585人、面積377平方キロ
メートルの規模を持つマルク州の州都である。

 このアンボン市は歴史が古く、16世紀からナツメグやグローブなどの香料
貿易で栄えていた。

 日本人の進出も早く、17世紀には、すでに日本町が形成された。

 1623年に、有名なアンボイナ事件が発生している。

 オランダ人がイギリス商館を襲い、イギリス人10名、日本人9名、ポルト
ガル人1名を惨殺して、香料貿易を独占した。

 その結果、マルク諸島はイギリスからオランダに支配権が移った。

 梅沢が赴任した頃は、香料貿易は衰え、木材や真珠貝が主要産業になってい
た。

 梅沢はジャカルタの日本領事館を訪ねると、現地の事情を聞きとった。

「山田書記官、アンボンで南洋材の交易をしたいのですが、誰か信頼できる日
本人を紹介していただけませんか?」

「梅沢君、ちょうど格好の人物がいるよ。かれは現地人からトワン(旦那)と
呼ばれている製材業者だ」

「有難い!わたしはラワンやチークを扱いたいのです。ぜひ、紹介してくださ
い」

「いいとも、かれは和歌山県の出身でアルー島のドボにいる。名前は辻内善右
衛門(つじうちぜんえもん)という。彼に紹介状を書いてあげよう。訪ねて行
きたまえ」

 と、山田書記官が言った。

「さっそくドボに行って、辻内さんに会います」

 梅沢は喜んで、領事館を後にした。

 アルー諸島はインドネシアの一番東にあり、95の島々からなる総面積85
63平方キロメートルの島嶼である。

主要産業は真珠貝の養殖、ココナッツ、タバコ、木材などであるが、生産額
は小さい。

アルー諸島最大の都市がドボで、大部分の日本人はドボに居住していた。

 ドボに到着した梅沢は、港から市街にむかって歩き始めた。

途中の浜辺に、先住民たちが集まって騒いでいるのを見た。

梅沢が浜辺に近づいてみると、人の輪の中心に大ワニが横たえられていた。

 ひとりの大男が包丁を持って、ワニの腹を裂こうとしていた。

そのそばで、若い母親らしき女性が泣き叫んでいた。

どうやら、子供が水泳中に、大ワニに食われたらしい。

男はワニの腹を裂いて、子供の遺体を取り出すと、用意した木棺に横たえた。

 母親は男の手を握って、

「トワン、感謝します。これで、息子の霊は救われました」

 と、言った。

「成仏できて良かった」

 と、男は短く言った。

 梅沢は男に近づくと、

「あなたは、日本の方ですか?」

 と、尋ねた。

「ええ、辻内といいます」

 と、男は答えた。

「これは奇遇だ!私は南洋興発の梅沢と申します。あなたを訪ねて、ジャカル
タからやって参りました」

「どんな御用件でしょうか?こんな辺鄙な場所に、南洋興発の方が訪ねてくる
とは珍しいことです」

 と、辻内は尋ねた。

「実は、辻内さん、南洋興発では事業規模拡大を企画しています。私どもは、
ニューギニアのラワン材とチーク材を日本や欧米に輸出したいのです。そこで、
ドボで製材所を経営している辻内さんに協力していただきたいのです」

 と、梅沢は来島の目的を説明した。

 辻内は頷くと、

「ならば、詳しい話はうちでゆっくり伺いましょう」

と、梅沢を自宅に案内した。

 南洋風の風通しの良い家で、辻内は梅沢の話を聞いた。

「わが社は、いまや南洋庁の財政を賄うまでに成長しました。杉田社長は事業
規模を拡大して、『海の満鉄』にしたいと考えています。アルー諸島のチーク
材、ニューギニア島のラワン材を製材して、高級家具を製造したいのです」

 と、梅沢は説明した。

「なるほど、よいところに目をつけましたね。しかし、それには先住民の協力
が必要ですよ。彼らは貨幣経済ではないのです。お金では、働きませんよ」

「わかっております。そこで、辻内さんに協力願いたいのです。わが社では、
正社員として働いていただきます」

「有難い!わたしは日本では、イサバ船という回船をやっていましたが、小鳴
門海狭で遭難しましてね、全財産を失いました。そこで、山口さんから製材を
誘われて、当地にやってきたのです。山口さんが内地に引き揚げたので、後を
任されていたのです」

「そうでしたか!わが社では、中途採用の社員は俸給45円で採用する規定で
すが、いかがでしょうか」

「結構です。自営より月給取りの方が、収入は安定します」

 と、辻内は承諾した。

 梅沢は安堵した。

「辻内さん、わたしはこれからアンボン島に渡って、資金の準備をします。あ
なたは、先住民を集めてくださいませんか。一月後に、来島します」

「わかりました。伐採道具をたくさん用意してください」

 と、辻内は答えた。

 パラオ島に帰った梅沢は、本社の関根専務を訪ねた。

「専務、お喜びください。ドボでの事業は、辻内さんの協力を得られて目途が
つきました」

「おお、そうか、それは良かった。でも、梅沢君、オランダ海軍とはもめない
でくれたまえ」

「分かっております。南洋興発の進出ぶりにオランダ海軍は疑念を持っていま
す。先日も、ハイネケン中佐が来店し、オランダの既得権を侵さないように要
請してきました」

「ふうーん、敵さんも警戒しているようだな」

「ええ、歴史的に見て、バンダ海はオランダが支配してきましたからね。日本
を敵視するのは、当然ですが」

「オランダを刺激せずうまくやりたまえ。君の手腕の見せ所だ」

 と、関根専務は激励した。

 アンボン島に戻った梅沢は、オランダ海軍基地を表敬訪問した。

「中佐殿、ご機嫌麗しくなによりです」

「おお、これは珍客だ。まぁ、かけたまえ」

 と、中佐は機嫌よく応じた。

「有難うございます。先日、コロールの本店に出張しまして、ヘネシーを手に
入れたものですから、おすそ分けに参りました」

 と、梅沢は笑顔で応じた。

「ヘネシー!それは有難いが、どこで手に入れたのかね?」

「わが社が経営するコロールデパートですよ。コロールデパートには、東京で
手に入るものは、何でも揃っています」

「ふーん、南洋興発もたいしたものだな」

「恐縮です。でも、オランダ海軍には、及びません」

 と、梅沢が謙遜すると、中佐は口髭を撫でながら答えた。

「わが海軍は、予算削減で大変だよ。ヘネシーなんぞ、高根の花だ」

「ならば、すこしおすそ分け致しますよ。1ダースばかり、お届けします」

「いいや、結構だ。ところで、梅沢所長、君のビジネスの商品は何かね?」

「チーク材とラワン材ですよ。原油やゴムには手を出しません」

「それは良い料簡だ。オランダの既得権を侵すと、お互いが不幸になる」

 と、中佐は警告した。

「では、中佐殿、失礼します」

 と、梅沢は挨拶した。

 中佐は鋭い眼をして、挨拶を返した。

 それは、日本の経済進出を断固阻止する、という決意に満ちていた。

 辻内の協力によって、チーク材やラワン材の伐採と製材は軌道に乗った。

梅沢は貨物船で木材を日本に送り、高級家具にして、欧米に輸出しだした。

杉田社長は梅沢を、

「梅沢君、よくやった。オランダを刺激せずに、新しい商権を開拓したのは、
お手柄だ。ボーナスを楽しみにしていたまえ」

 と、高く評価した。