・「猪突猛進」 


  1972年の頃だと記憶しているが、山中で猪に出会ったことがあった。
 夜8時頃、江住から自動車で坂道を登り、コカシ峠に着いたときのことであ
 る。ヘッドライトの向こうに大型の猪が浮かび上がった。車を停止して様子
 を伺っていると、猪が突進してきたのである。猪突猛進を実際に体験したの
 は猪猟師以外に少なかろう。あわててクラクションを鳴らすと、猪は3M位
 前で急停止した。そして、くるりと向きを変えて元の道を一目算に逃げ出し
 た。車を発進させて後追いしたが、途中から薮に飛び込み視界から消えた。
  猪が方向転換できないと思い込んでいたため、急に向きを変えたのは驚き
 であった。猪が向きを変えられないというのは、作り話にすぎない。念のた
 めに猪撃ち猟師に尋ねると、爪を上手に使って向きを変えるそうである。
 「自爆した猪」 
  私が佐本中学校に在校したのは1970年からであるが、その数年前に隣
 の小河内で大事件があった。猪撃ちの名人といわれた猟師が死亡したのであ
 る。数人で猪撃ちに出かけた冬の山中で事件は起こった。
  ダーン!という銃声のあと、仕留めた合図の笛が鳴らないのを不審に思っ
 た仲間の猟師が射場を尋ねると、瀕死の重症をおった名人が倒れていた。あ
 わてて救急措置をしていると、毛を逆立てた小山のような猪が戻ってきたの
 である。猟師たちは急いで近くの木によじ登り、猪の攻撃を避けようとした。
 ところが、猪は狂ったように木に体当たりを繰り返す。たまらず、猟師たち
 は、樹上から猪を撃ち殺した。
  山よりでっかい猪は出んというが、いったん逃げた巨大猪が引き返したと
 いうのも珍しい。助かるために逃走するのが動物の本能だが、テロリストの
 自爆テロのような行動を猪がしたのは謎である。


・「老婆の猪退治」 


  猪についてもう一つ珍しい話がある。佐本中の校区に中野川という地区が
 あった。中野川は後ろに山が迫り里山と呼べる地形である。お鹿婆さんがア
 ラケでカンペダイコンをほしていると、突然山から猪がアラケに飛び込んで
 きた。弾傷を負っており、瀕死の状態だった。婆さんは自分の着ていたはん
 ちゃ(半纏)を脱ぐや否や猪にかぶせた。そして、大声をあげて応援を求め
 た。
  老婆の叫び声を聞いた近所の人達が駆けつけ、猪を撲殺して大捕り物は終
 わった。70歳を越えた女性の猪退治は日本初の快挙ではないか。それにし
 ても、素手で猪に立ち向かった勇気は称賛に値する。その夜は中野川地区は
 区民総出の猪鍋で飲めや歌えやの大宴会になったそうだ。猪退治の武勇伝を
 肴に宴会が盛り上がったのはいうまでもない。山村の人々に憩いの宴を提供
 した猪君の霊も成仏したに違いない。
  佐本中学校に勤務していた頃、猪鍋を御馳走になったが、獣の臭いが強く
 て肉が固く美味には思えなかった。これは血抜きが不十分だったと考えられ
 る。かえって、猪と豚の交配種であるイノブタのほうがおいしかった。しか
 し、田原の猪牧場で分けてもらった猪肉はやわらかくバーベキューにすると、
 実においしかった。調理方法にもよるのであろうが、血抜きと冷凍庫で2、
 3カ月寝かせたからであろう。ちなみに肉の値段は1980年頃に100g
 500円と高値で、ちょうど鯨の尾の身と同額だった。