・「サエラの百万年」


  郷土の文豪佐藤 春夫の傑作「秋刀魚の歌」の一節に、

   そがうえに青き蜜柑の酢をしたたらせて/さんまを食うはその男の
   ふる里のならひなり

 とあり、熊野地方では秋刀魚に蜜柑酢をかける食習慣があることを描いてい
 る。串本地方では秋刀魚のことをサエラという。この秋刀魚ほど熊野地方の
 庶民に好まれる魚はなかった。まさしく大衆魚の王様である。
  もともと、寒流系であり脂肪分が強いのであるが、熊野灘まで南下した秋
 刀魚は脂肪分が適度に抜けて、食用に最適の状態になる。そのため、さまざ
 まな秋刀魚料理がつくられた。
  生魚では塩焼き、姿寿司、刺し身が主で、山間部では馴れ寿司にする。干
 物では「開き」「丸干し」などが中心である。串本町の尾崎水産の干物は、
 塩加減と干し加減が絶妙で、土産物として好評である。
  この秋刀魚がとれ過ぎて困った年がある。小島 宗一郎氏の「走りかに泡
 言」によると、明治10年(1878年)から翌年にかけて、サエラの百万
 年と呼ばれる豊漁があった。網元一軒で100万匹とれたのであるから、水
 揚げ高としては、まさに空前絶後となった。  
熊野灘でとれたサエラを串本まで運ばず、津荷(串本より東に8km)で
 水揚げして、また出漁するという戦場のようなありさまだった。各網元では
 、老人、女、子供を動員した総力戦で対応した。荷車やバンリョウという竹
 籠で津荷・串本間を運搬した。生ま物だから、昼夜を問わず対応した結果、
 津荷と串本の中間の動鳴気(どめきという地名。小さな岬になっており、絶
 えず白波がたち、どよめきが絶えないことによる命名)で、夜が明けること
 もあった。
このサエラの百万年を後に回想して歌ったのが、次の串本節である。

  ♪あしらわかいときゃ/津荷までかよた/津荷のどめきで/夜が明けた

 串本節には珍しい労働歌であり、大豊漁の後始末が伺われる貴重な歌だが
 、誤伝されて夜這いの歌として歌われるようになった。司馬 遼太郎や中
 上 健次も夜這い歌として紹介しているが、本来は労働歌なのである。津荷
 地区民には迷惑な話なので念のため付言しておく。



・「秋刀魚の歌」


  熊野の生んだ大詩人の佐藤 春夫は、郷土との関わりを終生捨てなかっ
 た。「望郷五月歌」「少年の日」「ためいき」「秋刀魚の歌」には、熊野
 の風土が活写されていて、懐かしさと感動を覚える。
  大自然に恵まれた熊野地方も土建国家による自然破壊の波に洗われ、白
 砂青松の海岸がコンクリート製のテトラポットと防波壁に変貌してしまっ
 た。太平洋は深いから、テトラポットに化けた私たちの血税が、今後無限
 に沈められるのは悲惨である。
  公共事業による地方への利益誘導政策の失敗は明らかである。地域の教
 育、福祉、暮らしが破綻しているにも拘わらず、相も変わらず「道路建設
 」に固執して土建政治を進める国会議員、地方議員、自治体首長が跋扈し
 ている。民主政治にはコストがかかるのは、私も承知しているが、少数者
 の利益の保護のために多数者の生活が破壊されるのは、本末転倒した話で
 はないか。
  佐藤 春夫が「秋刀魚の歌」を発表したのは、大正10年(1921年)
 谷崎潤一郎と千代夫人との三角関係のスキャンダルの最中だった。二連
 めに、その事情が描かれているから紹介すると、

   あはれ、人に捨てられんとする人妻と/妻にそむかれたる男と食卓に
   むかへば、愛うすき父を持ちし女の児は/小さき箸をあやつりなやみ
   つつ/父ならぬ男にさんまの腸をくれむと言ふにあらずや。

と、いった事情であった。
  谷崎は女性に惚れやすいが、飽きやすい性格である。嫌になると些細な
 ことで虐待を始める。見かねた春夫が千代夫人に救済の手を差し延べる内
 に、恋愛感情が発生したのが原因である。現代では、ありきたりで週刊誌
 のネタにもならないが、旧民法下では「不倫」は犯罪であり、社会的事件
 であった。三人は勝浦の旅館で話し合い、千代夫人の離婚と佐藤との再婚
 で合意した。そして、それを連名で公表したのである。

   あはれ/秋風よ/情け あらば伝へてよ
   男ありて/今日の夕餉に ひとり/さんまを食らひて涙をながす と
   
  人生の哀愁が漂う名詩だ。春夫と潤一郎のその後であるが、春夫は千代
 夫人と終生連れ添った。潤一郎は松子夫人と再婚し、芦屋に移住して名作
 「細雪」を完成する。両者とも、文化勲章を授章し、名声を高めた。離婚
 再婚は、結果良しだったのである。