・「トンボが食えるかい!」


  1969年の冬休みに神奈川県葉山町の建設現場でアルバイトをしてい
 たときのことである。夕食に刺し身を食べようと魚屋に寄ると、
 「兄ちゃん、いいマグロが入っているよ。安いよ!お買い得。」
 と、主人が呼びかけた。見ると安いが、身が白くトンボシビである。
 「これトンボじゃないの?」と、問うと、主人は破顔大笑して、
 「おい、おい、兄ちゃん、頭大丈夫?トンボが食えるかい。」
 と、答えた。周りの主婦たちも大笑いであるが、私にとってもカルチャー
 ショックだった。トンボシビがマグロとして売られるなんて、偽装表示だ 、
消費者を騙す悪質商法だと憤慨したのである。しかし、これは私の勉強
不足で、トンボシビもマグロとして通用しているのである。
  ビンナガマグロは、鰭が蜻蛉の羽根に似ていることからトンボシビとも
 呼ばれている。ふだんは缶詰シーチキンの原料だが、冬場は脂がのってお
 り、刺し身に使用する。マグロは値段の安い順に、キハダ(シビ)、メバチ、
クロマグロ(ホンマグロ)と続く。寿司屋でマグロとして食べている のは、シビ
である。メバチになると、相当値が張るため、おいそれとは庶 民の口には入
らない。わたしなどは、年に一、二度、贅沢したいとき食べ るだけだ。まして、
クロマグロなどは、高級料亭専用で社用族が交際費で 食べる幻のマグロだ。
黒いダイヤと呼ばれているくらいである。
  クロマグロといえば、ケンケン漁師にとっては、一獲千金の夢を追う対
 象だった。一匹釣り上げると、数百万単位の収入になる。家計が一気に楽
 になるのだ。昭和31年(1956年)串本町田並のケンケン漁で水揚げ
 されたことがある。同級生の干川君の父上が、潮岬沖で釣り上げたもので
 、50万円の値がつき村中の話題をさらった。干川君の家では親類縁者が
 集まり、大宴会をしていた。大卒の初任給が12000円の頃であり、今
 の価格だと800万円はするだろう。干川君も頬が緩み、気前よく買い食
 いのお菓子をおごってくれた。私たちもささやかながら、おこぼれに預か
 った次第である。
  昭和30年代はクロマグロの水揚げをちょいちょい聞いたが、最近はと
 んと聞かなくなった。熊野地方から、天然クロマグロが消えてしまい、養
 殖マグロがとって代わるようになった。マグロ漁師も、トンボやキハダを
 追っているが、夢よ再びの思いは捨て切れないようだ。



・「クロマグロの完全養殖」


  NHKの「プロジェクトX」で紹介された近畿大学水産学部大島実験所
 は、世界初のクロマグロの完全養殖に成功した。熊井 英水教授とそのス
 タッフの長期に渡る研究と情熱が見事に実を結んだのである。
  2007年6月に、大島実験所の沢田 雅信所長から「クロマグロ養殖
 の現状」をお話いただいた。以下、紹介したい。

  ・人類とマグロとの関わりは深く、縄文時代の貝塚から骨が発見されて
   いる。
  ・卵から成魚に成長させる養殖は難しく、成功例は大島実験所だけであ
   る。稚魚になっても、10000分の1しか成長しない。
  ・マグロの餌は冷凍サバを使うのでコストが高く、粉末の餌を研究して
   いる。
  ・成長は水温と関係が深く、大島では3年めから出荷する。1kg10
   000円以上で取引されるが、天然ものだと50000円になる。
  ・マグロの大消費国は中国で、世界各国から輸入している。
  ・マグロは眠っている間も泳ぐので、生け簀の直径が30mのものを使
   っている。大きいほど良いが、強度の点でこれが限界である。
  ・雷が大敵で、動転したマグロが生け簀に衝突して死ぬことがある。
  ・マグロの肉には、水銀が多く含まれているので、アメリカでは妊婦の
   禁止食物になっている。水銀は工場廃液の多い地域ほど、濃度が高い
   ので、マグロ養殖には環境対策がかかせない。

 「継続は力なり」と、一口にいうが、試行錯誤の繰り返しから、海の黒ダイ
 ヤを掘り当てた研究スタッフの根性に脱帽である。マグロ資源の保護の
 観点からも、政府のサポートが期待される。
 「マグロを庶民の口に」を合言葉に、日夜取り組んでいる関係者に敬意
 を表したい。Good Luck!