・「笠島遺跡と筒男神」


 熊野地方は紀伊半島の南部に占める地形ゆえ、黒潮に突き出しており、漁業資源
に恵まれていた。古代から、漁業が発達しており、海岸ぞいに漁村が多い。なかで
も、3世紀頃の漁業専業集落遺跡として注目されたのが、笠島遺跡である。
 この遺跡は昭和35年(1960年)、同志社大によって発掘された。場所は串本
高校校庭の西南部にある。
 特徴的なのは、当時としては珍しかった船底材、漁具類が多数出土し、農具類が
出土しなかったことである。それで、遺跡の性格が漁業専業集落と判断されたが、
発掘面積が狭かったことを考えると、早計ではなかろうか。というのは、集落があ
ったと推定される台地付近は水の便が良い谷間が散在しており、そこで清水を利用
した水田耕作がなされた可能性がある。数キロ離れた出雲の須賀の浜より、石包丁
が発見されており、水田耕作があったことを示しているからである。類似地形の笠
島遺跡にも、水田耕作がなされていた可能性が高い。後述するように、筒男神を信
仰する海民は半農半漁の定着民である。笠島遺跡の跡に建立された潮崎元の宮は、
筒男三神を祭っている。筒男三神を祭った海民は、遠浅の磯場で、貝の採集、漁労
、製塩、交易に従事する人々である。笠島がかつては潟島と呼ばれ、遠浅の入り江
になっていたことから、筒男三神を信奉する海民が定着するにふさわしい。
 この遺跡の出土物から、笠島海民の生活を復元してみたい。まず、注目するのは
、楠材の船底とヒノキ材の防舷材、ヒノキ材の櫂、あかかきなどから外洋航海用の
構造船だったことである。丸木船のように河川航海用でなく、波除機能を備えた外
洋船だったと考えられる。残念ながら、帆柱や帆立装置が発見されなかったが、帆
がないと急流の黒潮が乗り切れないからである。たぶん、トマを編んでつくったの
であろうが、帆のない遠洋航海は考えられない。
 私はアイヌ民族の船の作り方が参考になると思う。かれらはカツラの木を中央よ
り割ってチョウナで堀り、杉板で弦板を造り、弦板に穴をあけ、つるで固定する。
隙間には草をつめ、水漏れを防ぐ。古事記に天の鳥船、日本書紀には岩樟船、熊野
諸手船など船に関する記述が出てくるが、製作過程の記述は皆無である。遣唐使船
の百済船なども同様の方法だったから、古代より造船技術はあまり進歩していない。
 次に、漁労具であるが弓状木器,槍状木器、ヤス状木器、ヘラ状木器、魚網具の
浮、おもりなどが出土している。「魏志東夷伝」倭人の条に、

 はじめて一海をわたる。対馬国に至る。(中略) 良田なく、海物を食して自活し、
船に乗りて南北に市糴す。

 好んで魚鰒を捕え、水深浅となく、皆沈没して,これを取る。

 今、倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身して亦もって大魚・水禽を払う

 とあり、3世紀頃の海民の生活が描かれている。まとめると、

 ・海産物を食料とし、魚貝を潜水漁法で取る
 ・船を利用して、交易をする
 ・鰒を採取するのは、食料以外に白珠を採取するためである
 ・サメや猛禽の被害を避けるため、入れ墨をしていた

 笠島海民も、アワビの採取をはじめ、潜水による魚貝の突き刺し漁、漁網による
魚の採取、交易による食糧の入手、白珠の交易などをおこなっていた。とくに、白
珠は中国への交易品として重宝されていた。
 遺跡からの食物として、確認されたのは、以下の産物である。

 ・ブダイ、カツオ、サメ、エイ、マグロなどの魚類
 ・ウミガメなどの爬虫類
 ・ギンタカハマ、オニサザエ、シロイガレイシ、カワニナなどの貝類
 ・イノシシ、シカなどの哺乳類
 ・モモ、ウリなどの果実類

 以上の遺物が発見されたが、ほかに保存状態が悪くて、確認できないものが多く出
た。アワビやトコブシなどはたくさん採れたであろうが、遺物にはなかった。魚類に
しても、串本近海の豊富さからみても、ごく一部であろう。いちばん不思議なのは、
籾や椎が発見されなかったことであるが、潮岬台地の椎の豊富さからみれば、常食と
考えられる。イノシシやシカなどの哺乳類は潮岬台地に棲息していたか紀伊半島側か
ら交易で手に入れたのであろう。ほかに海藻や山菜、アワ、ヒエなどの穀類や野菜を
自家栽培して自活していたのであろう。富の蓄積はたいしてなかろうが、温暖な気候
に恵まれて生きていくには十分だったと考えられる。
 次に、同遺跡から発見された注目遺物に船型模型がある。長さ31.5センチ、幅
5センチ、深さ2.3センチの刳り舟である。祭祀用の形代と考えられるが、いかに
も船の交易に従事した笠島海民の特性をあらわしている。たぶん、交易に出かけるさ
いに、航海の無事と交易の成功を祈ったのであろう。船を生活の中心とした漁労・航
海民が、笠島遺跡海民の姿なのである。
 最後に、筒男神のことが解明されねばならない。潮崎本の宮は、笠島遺跡の直近に
ある。隣接しているといって良い。わたしは、この神社は笠島遺跡の集落跡に建立さ
れたと考えている。先祖の集落か埋葬地が神社になることが、一般的だからである。
同時に、先祖が神として祀られるのが、常態である。潮崎本の宮は、住吉三神を祀っ
ており、ウワツツノオ、ナカツツノオ、シタツツノオが祭神である。延喜式神名帳に
海神三神とあるのは、この三神と考えられる。この三神をオリオン座の三ツ星と解し
て、ツツを星とし、航海民の祭神とする説があるが、このツツは蛇,海蛇と解したい。
海蛇をトーテムとする海民が、顔、胴体、足に蛇の装飾を施し、大魚・水禽獣の害を
避けたのが、住吉三神なのである。かれらは、朝鮮半島南部の海岸、対馬、九州北部、
瀬戸内、四国、紀伊半島海岸に広く、分布・定着した倭人の後裔であった。そして、
神功皇后伝説・応神天皇伝説を流布しながら、各地に展開した。笠島遺跡の海民も、
このような漁労と交易を生業とする倭人だったのである。



・「熊野水軍」


 網野 善彦氏は「東と西の語る日本の歴史」のなかで、水軍の根拠地として九州北
部、瀬戸内海沿岸、紀伊半島南部をあげ、「海賊型武者」の活動が活発であったと語
っている。同時に、東国の騎射型武者に対して西国の海賊型武者を武者の典型に挙げ
られている。東国の馬に対して、西国では船が戦闘の主兵器であったことが、伺われ
る。この船を主力とする武者の集団が水軍と呼ばれた。水軍というのは、船に兵を乗
せ弓、刀、長刀で武装して、戦闘を行う武士団である。この武士団の根拠地は、平地
が少なく、私営田を多く持てなかったため、非農業収入に活路を求めざるを得なかっ
た。それが、海賊型と呼ばれる諸行為である。海外と京都との物資の大動脈である瀬
戸内海では、警護料を徴収したし、拒否する交易船からは略奪を行った。海賊と称さ
れた由縁である。しかし、それだけで、軍事力が維持できるとは思えない。むしろ、
海賊以外の収入が大きかったのではないか。
 その筆頭は、交易であろう。それも、海外との交易である。室町時代に栄えた草戸
千軒町遺跡(広島県福山市)からは、全国各地からの陶磁器が出土した。亀山窯、備
前窯(岡山県)、魚住窯(兵庫県)、信楽窯(滋賀県)、常滑・瀬戸・渥美窯(愛知県)、美
濃窯(岐阜県)などの国内産陶器のほかに、中国産、朝鮮産、ベトナム産の陶磁器が発
見されている。これらは、海の道を通じてもたらされたものである。そして、その利
益は莫大なものであった。同遺跡の出土品の甕に銅銭や金貨、銀貨が蓄えられていた
のである。このような海外を含めた遠隔地型交易は、多くの資金や人手を要し、海の
豪族ともいうべき海民の支配者が存在していたことを示している。
 熊野では水軍の活動はどうであったか。それを考える手がかりに下里古墳がある。
この古墳は紀南唯一の前方後円墳でありながら、被葬者が不明である。私は、以下の
理由で、物部氏の一族であったと考えている。熊野の国の国造は、大阿刀氏であった
が、大阿刀氏は物部水軍の一族である。物部氏の由来を記述した「先代旧事本紀」に
は、以下の記述がある。

 天の鳥船に乗りて来る神々に、船長 跡部首祖 天津羽原、梶取 阿刀造等祖
 大麻良・・・

 物部氏が水軍として行動し、阿刀氏の役割も水軍の幹部であったことが分かる。
「日本書紀」に熊野諸手船の記述が出てくるが、水軍活動が活発であった証拠になる。
下里古墳は今は内陸にあるが、古代には海岸に築造されていた。古墳に使われた葺き
石は、那智勝浦町天満から運ばれており、船を大量に所持している豪族だったことを
示している。その大阿刀氏の水軍が、なぜ消滅してしまったのか。それには、663
年の白村江の戦いが原因であろう。阿倍 比羅夫を将軍に唐・新羅連合軍との戦闘に
紀氏水軍の一員として参加した熊野水軍は壊滅した.1000隻の軍船が、無事帰還
したのが20隻といった有様で、熊野に限らず西国の水軍が消滅したのである。熊野
の国は国造が軍事権を握っていたから、大阿刀氏も勢力を失い、紀氏に併合された。
水軍が船を失えば、陸に上がったカッパである。交易に頼っていた国政は衰弱し、紀
伊の国の一部になった。
 中世には、熊野三山の神人や衆徒の活動として、熊野水軍は復活する。熊野三山は
武装した大衆・寄人を抱えて自己の荘園を守り、他領を侵していたが、源平の覇権争
いに参加するようになった。
 1180年、源 頼朝挙兵、源 義仲挙兵と平氏打倒の動きが続く中で、本宮の別
当、湛増が平氏領を侵略する。この動きを頼朝は、源氏に味方する動きと注目し、翌
年の伊勢、志摩侵攻に至る活動を熊野水軍によるものと認識した。ここで、熊野水軍
は平氏を見限り、源氏方に鞍替えする。その風見鶏的行動は当を得て、1185年の
屋島の戦いに参陣して勝利、同じく壇ノ浦の戦いでは河野水軍とともに平氏滅亡の主
役になった。湛増としては、わが世に春を迎えたのも束の間、頼朝と義経の対立の渦
に巻き込まれそうになる。義経に近かった湛増の立場は、義経追討の宣旨によって、
にわかに雲行きが怪しくなる。1186年2月、義経追討令が熊野に発せられた。湛
増は幸いにも、義経が熊野落ちを目指さず奥州へ帰ったため類を免れた。義経と心中
する事態を避けられたのである。湛増は熊野権現の御利益に思わず、涙したに相違な
かろう。しかし、1221年の承久の乱は、水軍の運命を逆転させた。後鳥羽上皇の
執拗な誘いを断れずに、上皇方として戦った快実は、捕えられて処刑された。風見鶏
として、絶えず勝者についた熊野水軍も年貢の納め時がきたのである。かくして、熊
野水軍の主流は滅びた。
 鎌倉幕府の治世が落ち着くにつれ、熊野水軍の残存勢力は交易に力を入れだした。
琉球、瀬戸内、四国などに拠点を設けたが、ライバルが現れた。幕府の執権北条氏で
ある。北条氏は、交易に積極的で一族を琉球、奄美、薩摩、瀬戸内諸国の守護に任じ、
利益を独占しようと図った。熊野水軍にとっても、死活問題である。北条氏の取り締
まりの強化に反抗した熊野水軍は幕府から追討を受けた。「吾妻鏡」によれば、13
08年〜1315年にかけて熊野浦の海賊が蜂起し、15か国の軍兵を差し向けたが
効果があがらなかったとある。幕府にとって、襲えば海上に逃げさり,とどまれば奇
襲を受けるというやっかいな戦いであった。現代のゲリラ戦のようなもので、労多く
して功少なしといった戦闘である。幕府方の士気があがらず、成果もあげないまま引
き揚げてしまった。「アホくさ、やってられるかい」というのが、幕府軍の本音であ
ったが、幕府軍の意外な弱さに注目した人物がいた。後醍醐天皇である。この水軍力
を味方につければ、倒幕も可能と考えた。「建武の新政」における熊野水軍の果たし
た役割は名和 長年や楠 正成とともに大きい。特に、北条氏の交易路を断ち、経済
力を弱めた功績は大きい。幕府も1331年、有力御家人の小山氏を派遣し、取締り
を強化したが、時すでに遅しであった。1333年、鎌倉幕府は滅ぶのである。承久
の乱以降、逼塞していた熊野水軍は再び歴史の表舞台に立つのである。
 ここで、熊野水軍として活躍した海の豪族たちを紹介しよう。
 まず、鵜殿氏であるが、新宮速玉大社の社家として活動した。その生業は問丸であ
り、法勝寺、東福寺の庄司として年貢の徴収・納入を請け負った。熊野川河口に湊と
城を有し、木材の売買で巨利を得た。鵜殿氏は愛知県蒲郡に所領をもち、太平洋航路
の交易に従事した。海賊というよりも、交易・輸送業者としての側面が大きい。
 次に、安宅氏であるが、日置川河口に湊と山城をもち、南海航路・瀬戸内航路を独
占し阿波の沼島を所領とする。小豆島に造船所をもち、安宅船と呼ぶ軍船を建造した。
比較的海賊的要素の強い豪族である。
 塩崎氏は平 清盛の異母弟の頼盛を祖とする。頼盛は頼朝の命を救った池 禅尼の
子であり、平氏滅亡後は平氏の没官領の大半を与えられ、鎌倉幕府の代理人的地位に
あったが、貴族社会の視線は冷たく、その子孫が串本に土着し、那智大社の尊勝院を
管理した。尊勝院は、那智大社の政所として財政の実権を握った。荘園の管理や年貢
の徴収・輸送に従事した。もちろん、衆徒や神人を抱え、免税と自由通行の特権を利
用して交易に従事した。このように、塩崎氏は那智大社をバックにした水軍であった。
 和田氏は、鎌倉幕府の初代侍所別当の和田義盛を祖とする。義盛が和田合戦に敗れ
て滅亡したが、三男義秀が太地に土着し、和田氏を名乗ったという。後に、鯨方を組
織して捕鯨で有名になったが、南北朝時代は南朝に属し、軍功をたてている。
 色川氏は平 維盛の末裔と伝えられている。那智奥の色川を拠点としたが、水軍を
保有していた。南北朝時代に、南軍として活躍した。
 泰地氏は、佐々木源氏の佐々木 高頼の後裔といわれているが、太地に土着して泰
地氏を名乗った。足利 尊氏は、泰地氏に対して周防竈関から摂津尼崎までの西国運
送船や廻船から櫓別銭100文の徴収を許可している。このころには、瀬戸内海での
警護役を行っていたことが分かる。
 小山氏は鎌倉幕府の有力御家人であり、栃木県小山氏を本拠としていたが、熊野海
賊蜂起のあと、監視役として日置川町久木と串本町西向に派遣された。しかし、13
33年鎌倉幕府が滅亡すると、小山氏は自立して海賊的武者として活動する。
 このように、熊野水軍と総称される「海の豪族」たちは、寺社の衆徒や社家から成
長したものや御家人・貴族の落?したもの、海民から豪族化したものなど、生まれも
育ちもさまざまであった。後に、江戸幕府の大名として残った尾鷲市の海民出身の九
鬼氏を除いて、国持ち大名に成長したものはなく、「海の豪族」の限界を示している。
 熊野水軍の終焉は、新宮速玉大社の社家出身の堀内氏の滅亡をもってするといえよ
う。堀内氏は氏善の時代に熊野地方に勢力を伸ばした。氏善は水軍を利用して、古座
上野山の佐部氏や周参見氏を討とうとしたが、一揆的連合を組んだ他の豪族に敗れ、
熊野地方の統一はならなかった。このことは、東国の家父長支配に基づく大勢力の出
現よりも一揆的小勢力の連合のほうを優先した熊野地方の風土に基づいているといえ
る。1600年、関ヶ原の戦いで西軍に味方した堀内氏は、新宮から追放され、熊野
水軍の組織だった武力活動は終わった。あとは、熊野一揆などで残存勢力の活動がみ
られたが、幕藩体制を破壊できず海民の生業に戻ったのである。



・「御崎会合」


 海には明確な境界線がないため、とにかくトラブルが発生する。そのトラブルを解
決するための寄り合いが御崎会合である。潮岬神社に潮岬近辺の各浦の代表者が集ま
り、漁業上の取り決めをおこなった。その起源は浅野氏の藩政頃といわれているが、
大島浦が触れ頭として采配を振るった。寛永14年(1637年)に改組したが,こ
の記録が「潮御崎文書」である。この会合に参加したのは、上野浦、出雲浦、串本浦、
鬮野川村、有田浦、田並浦、江田浦、田子浦、和深浦、里野浦、江住浦、見老津浦、
周参見浦、大島浦、須江浦、樫野浦、古座浦、西向浦、下田原浦の19か村である。
各村は旧正月、五月、九月の18日に潮岬の御崎神社に集まり、漁業上の取り決めを
行った。特に、鰹漁については、鰹の餌になる鰯を捕獲するためのトラブルが多かっ
た。会合の定め書には、次のような取り決めがなされている。

     ・鰹漁は3月3日より5月5日まで先後順次に捕獲し、5月6日より9月9日
    までは、自由捕獲とする
   ・エドコ鰯を捕獲するに3月3日より9月9日までは、餌網をもって捕獲でき
    ない
   ・潮岬近辺での亀の突きとりを禁ずる
   ・水夫の引き抜きを禁ずる

 鰹は鰹節の材料になるため、その漁獲量の高低は各浦の死活問題となる。したがっ
て、各浦の駆け引きがあり、悶着のもととなった。エドコ鰯の漁場として、通夜島が
最良であったが、そこを大島浦、串本浦、出雲浦が独占を図り、他の浦から反撃され
たり、親方漁師が零細漁師の締め出しを図ったり、なかなか油断ならない会合だった。
 鰹は高速で海中を移動するため、とかく鰹漁はトラブルが発生した。漁師同士で解
決がつかず、大庄屋の採決にゆだねることもあった。寛文7年(1667年)3浦せ
り鰹騒動は、その典型である。漁師同士の約束事がとかくあてにならず、融通無碍で
あることをとくとご覧あれ。
 6月1日に有田の稲村崎にせり鰹(海岸に大群になって押し寄せる鰹)が押し寄せ
た。有田船が発見したが、ちょうど串本船と上野船が来合せた。鰹は近来にない大ナ
ブラであり、三組合同でひと儲けしようということになった。発見者の有田船が5分
の3、串本・上野が5分の1ずつという分け前を取り決めた。ところがである。鰹は
人間の談合を待ってはくれず、移動を始めた。そして、あろうことか、串本・上野の
漁業海域に入った。網代の位置は串本・上野。鰹の発見は有田船。大漁の鰹を前に、
人間同士のいがみ合いが始まったのである。有田船は約束通り、5分3の取り分を主
張。串・上連合は獲れたのは、串・上連合の網代であると主張。5分3は無謀という
。大漁の鰹を前に、あわや乱闘という次第になった。そこで、3組の船頭は、大庄屋
に裁定を委任した。
 尻を持ち込まれた大庄屋は、3240本の鰹を三等分し、各浦に1080本ずつ配
分した。有田浦の言い分を無視し、公平に三等分したのである。本来なら、有田浦に
色をつけてあげるべきだが、それをしなかった。有田浦の人口が少なく、串本上野が
多かったのが理由であろう。有田の漁師の切歯扼腕ぶりが目に浮かぶ。このように小
国の言い分が無視され、大国の言い分がまかり通るのは2008年8月6日世紀の国
際政治の専売特許ではないのである。「無理が通れば、道理がひっこむ」というが、
熊野地方の政治も、同様であった。約束破りが、まかり通ったのである。



・「熊野海民の東北出漁」


 「銚子外川は紀州領」とは、江戸時代に房総で言いはやされた俗言であるが、確か
に紀州海民による移住・開発がめだった。漁業に関しては、「西高東低」で西日本の
方が進んでいたが、紀州海民が関東に出漁したのには訳があった。杉浦 敬次氏は東
京で教職に就かれていたが、退職後千葉県鴨川に移住された。そこで、鴨川市民の先
祖に紀州から移住した人が多いことを知り、調べ始めた。その成果を「東国漁業の夜
明けと紀州海民の活躍」としてまとめられ、出版された。紀州海民の関東出漁につい
ては、笠原 正夫氏の研究があり、紀州加太の海民の出漁を詳しく調査されている。
両氏の研究によって、関東出漁は語りつくされているが、屋上屋を重ねる愚昧さを覚
悟のうえで、熊野海民の東北出漁を記述したい。
 紀州海民の房総での漁業は、地引網による鰯の捕獲が中心であった。鰯は綿栽培の
肥料として欠かせず、真鰯、うるめ鰯、片くち鰯などを干し鰯にして俵詰めで販売し
た。木綿の栽培は、河内・三河を中心に各地に広がり、「棉をつくるより田をつくれ」
という禁令がたびたび出るほどだった。綿価は米価の5倍にのぼったという。したが
って、鰯漁は需要が急騰しバブル景気となったが、18世紀の初めごろより不振産業
になってしまった。その原因として、地元資本の鰯漁組合との競合、鰯の不漁、大津
波による漁業基地の破壊、税の増加による利益の減少があげられる。関東出漁による
利益の減少は、紀州引き揚げの選択しか残さなかった。かくして、紀州に引き揚げる
海民と土着する海民とに分解した海民は、それぞれ苦難の道を辿るのであるが、銚子
市に定着した浜口 儀兵衛は、醤油製造で産をなした。世界的企業に成長したヤマサ
の先祖である。
 熊野新宮市三輪崎の鰹船の三陸海岸進出は、17世紀後半ごろからである。鰯に代
わって鰹が主役になった。回遊魚である鰹は、黒潮にのって移動する。4月は紀伊半
島沖にいるが、5、6月と東に移動し、8月には三陸沖に達する。この鰹の群れが、
紀州海民を三陸海岸に導いた。
 1675年(延宝3年)、気仙沼市唐桑町鮪立に到着した2隻の鰹船が浦借りを申し
出た。もちろん、村人は反対したが、有力者の勘右衛門はこれを受け入れた。という
のは、当時の三陸の鰹漁は沿岸釣りで沖釣りの技術がなかった。したがって、漁獲が
大したことがなく、漁村の貧困さは甚だしかった。勘右衛門は紀州の進んだ「溜釣り
」の技術を取り入れることで、貧困からの脱出を図ったのである。鰹漁は生きた鰯を
餌にする。その生き鰯を鰹の群れに撒いたり、泳がし釣りをして釣り上げるのである
。その生き餌を捕獲するのに棒受網を用いた。集魚灯で鰯を寄せて、大型の多網のよ
うな網ですくい取る漁法である。この生き餌の鮮度が勝負になる。うまくいけば、1
隻の鰹船が200〜300本の鰹を釣りあげるから、必死である。技術習得に励んだ
村人は、1677年、鰹船を建造し、自力で沖合鰹漁に挑戦した。そして、鰹を捕獲
すると身は鰹節に、アラは粉末肥料にと有効活用し、貧困から脱却した。勘右衛門の
英断と熊野海民の技術が村人の生活を安定せしめたのである。
 黒潮は鰹や鮪のような回遊魚だけでなく、鯨のような大型哺乳類も運んでくる。特
に、三陸海岸のような暖流・寒流の潮目では豊富なプランクトンを餌とする鯨が集合
する。これに注目したのが太地の人、石垣 牛之助である。牛之助は、1735年(享
保20年)に、南部藩に沖合捕鯨を願って許可された。捕鯨は、南部藩各浦の漁民たち
の猛反対を受けた。彼らの言い分は、鯨は鰯を沖から入り江に追い込んでくれる海の
神であり、鯨を捕れば鰯が不漁になるというのである。それやこれやで、地元の協力
を得られなかった鯨漁は失敗し、石垣は太地に引き揚げた。
 このように、熊野や紀州の漁民は積極、果敢に他郷に進出し、得失を納めたが、こ
こで一大汚点を語らなければならない。有田郡湯浅栖原村出身の栖原 角兵衛は紀州
海民の成功者であった。江戸で肥料、燃料を手広く商った角兵衛は5代目のとき、蝦
夷地に進出し鰊漁をおこなった。松前藩の借財を肩代わりして、利権を得たのである。
鰯の代わりに、鰊で〆粕をつくり、販売しようとしたのである。そして、鮭、アワビ
、いりこ、昆布などを独占販売しだした。これらの漁場の労働者は、アイヌ民族であ
る。栖原屋は、彼らを低賃金・長時間労働の劣悪なる条件でこき使った。1856年
に蝦夷地探検で名をなした松浦 武四郎は、栖原屋の悪逆非道ぶりを以下のように記
述している。

 場所によっては、アイヌを昼夜の別なく働かせ、夜の九時頃宵の明星が輝くころ休
めの号令が出て、夕食となる。それで、アイヌはこの星を栖原の星と呼んで待ち望ん
だ。通訳の清兵衛は、アイヌの4、5人は叩き殺してもどうということはないと、公
言した。

 当時はアイヌに対する虐待は、一般的であったが、すべての商人が虐待したのでは
ない。高田屋 嘉兵衛のような人道的扱いをした商人もいた。栖原屋は悪徳商人とし
てアイヌ民族史に汚点を残した。進取の気性に富んだ紀州海民といえども、皆が皆、
英雄ではなかったのである。



・「廻船とタコ」


 私は2005年4月から2008年3月まで串本町立大島中学校で勤務し、総合的
学習で地域調べをおこなったが、「日和山」という地名を知った。「日和山」という
地名は、紀伊半島では新宮市と三重県鳥羽市にあり、廻船の寄港地に多く残っている。
廻船というのは、江戸時代に発達した国内沿岸定期航路で、その起源は1619年(
元和5年)、堺の泉屋が紀州富田浦の250石積みの和船に、油、酒、木綿を乗せて
江戸に廻送したのが、始まりとされる。
 大阪(大坂)・江戸間が定期化したのは1634年であるが、日用雑貨品を積載して
積み荷落下防止用の菱垣をめぐらせたものを「菱垣廻船」と呼んだ。酒、醤油、油な
どの樽ものを運ぶ専用船を「樽廻船」と呼んだが、200石〜400石程度の和船で
ある。後には、1000石船も登場したが、米1石が150kgであるから、150t
積みの積載量である。現代の貨物船の排水量では、300tクラスであり、小型船の
部類であろう。
 どれも、風任せ、潮任せの航行であるから、江戸・大坂間が30日ぐらいかかるの
である。陸上交通の倍かかるが、馬一頭分の積載量が米俵4俵(260kg)であるか
ら、1000石船では、馬577頭分の積載量になる。コストを考えると、廻船の方
が、有利となる。ただ、遭難すると元も子もなくなるので、日和を読む判断力が重視
される。出港・待機の判断は船頭の仕事で、日和山は早朝天気を読む場所だったので
ある。
 大島の日和山は、湊のそばにある107mの小山であるが、船頭にとっては神聖な
場所であった。大島から鳥羽、伊豆半島の下田、三浦半島の浦賀など有力な寄港地に
無事辿り着ける天候を読むのである。命がかかっているので真剣勝負で、知識や経験
がものをいう。大島港や田代港は東南の風を避ける良港であったが、ニシの風に弱か
った。大島では「やまぜがわせのニシ怖い」という言い伝えがあるが、ニシの暴風雨
によって、たくさんの廻船が沈没したこともあった。南西の風をやまぜと呼ぶが、こ
れが西風に変わると大島港は無防備になる。この大島港は紀伊半島の南端にあり、風
待ち港として最適の地形であったが、西風が弱点だった。潮待ち、風待ち、水の補給
、燃料の補給などで廻船が寄港したが、多い時で400隻の廻船が潮懸かりしたとい
う。当時の廻船は櫓がなかったので伝馬船で牽引したが、この水先案内が大島の人々
の仕事になった。1隻の廻船を4隻の伝馬で牽引し、「水」と呼んだ。それ以外に、
船宿や商品の売買に携わる人も出てきて、大島の旦那衆が形成された。この廻船の寄
港によって、大島に「地下衆」と呼ばれる旦那衆と「北浜衆」と呼ばれる水先案内と
漁師の勤労階級が出現し、それが大島の支配と被支配の関係をつくったのである。も
っとも、廻船が大島に寄港したのは、風待ちや潮懸かりだけでなく、大島のタコと呼
ばれた遊女と遊ぶ目的もあったのであろう。串本節に、

 大島水谷 かかりし船は お雪見たさの 潮懸かり

とあるように、タコと呼ばれる遊女が存在し、お雪はナンバーワンだった。タコと呼
ぶのは、遊女が伝馬船で出張売春を行い、交渉が成立するまでは離れない状態を揶揄
して水夫たちが呼んだのが、起源といわれているが、定かでない。
 江戸時代の大島では公娼が認められず、私娼であったため、たびたび手入れが行わ
れた。大島の民家は、天井裏部屋や地下室が存在する特異な構造になっているが、手
入れを避けるためであった。代官所でも、潮懸かりする船に対して手入れを行い、「
夜討ち朝駆け」を実行したが、中には海に飛び込んで逃げる遊女もいて、取締りに手
を焼いた。もちろん、手心を加えないと買い手の水夫たちの不満が爆発するので、虚
々実々の駆け引きを行ったのである。
 お雪については、初代から三代目まであり、三代目お雪は明治24年(1891年)
に死亡、新宮市の出身という。寺町 みちえ氏の語るところでは、

 あしゃ子供の時、聞いた話やけど、寺の下のサンベにお雪さんがいてのう。
 そりゃ、別嬪でさんで賢うて働き者やったそうな。夜は商売して、昼間は畑仕事や
家のことをしっかりやる。なにしろ、サンベ(三兵衛)のゲベツ(米櫃)やったんで、ば
あさんが「お雪、お雪」と、そりゃ大事にしたそうやごいさ。

 というありさまであった。また、タコのお秋と呼ばれた遊女も、客あしらいのうま
さ、芸事、美貌と三拍子揃っており、人気を博した。お秋が伝馬で商売にでかけると、
船上から水夫が「おい、タコ」と呼び掛けた。お秋は、「タコじゃごいせん、お秋で
ごいす。」と答えて、水夫をへこましたという。大島節に、

  タコのお秋の 化粧が曇る 降るな港の夕時雨

 とあり、艶名を謳われた。しかし、お雪やお秋は例外で、大概は、大島節に、

  島の女郎衆は 味見ておくれ 色は黒ても 味は良い

 といったレベルで、公娼制度の発達した江戸の吉原や伊勢の古市などの粋の高さで
はなかった。このような私娼制度のもとで、大島のタコたちは年季が開けるまで働き、
蓄えた元手で商売したり、結婚したりした。公娼のような足抜き厳禁の半奴隷制度で
なく、緩やかな規制の下で商売したのである。郷里に戻って幸福な人生を送った人が
多かったとされるのも、遊女制度の定説とは異なり、ほっとした感慨をもたらしてく
れる。江戸時代には、女性は三従の教えに縛られ、制約された人生のように喧伝され
るが、意外と自由だったのである。濱 健吾氏は、タコは地元の人がおらず、他郷か
らの出稼ぎが多かったと主張している。明治のからゆきさんの原型は、ここにも見ら
れるのである。



・「いさば船と赤須賀船」


 私の母方の曾祖父辻内 善右衛門は、小廻船の船主であった。串本地方では、小廻
船のことを「いさば船」とか「出買え船」とか呼んだ。「いさば」は磯場の訛ったも
のであり、「出買え」は出て行って商品を買ってくるの意味であろう。海産物や日用
品を売買する商人の持ち船が、いさばや出買いであった。これらは、昭和の初めまで、
串本地方の物資流通に大きな役割を果たした。というのも、紀勢線が江住串本間が開
通せず、昭和16年にやっと開通するという有様で、串本地方は陸の孤島と呼ばれた。
中央政府は、紀伊半島の交通整備に不熱心で、紀勢線全線開通が昭和34年(195
9年)で、それまでは、船が流通の主力であった。
 辻内 善右衛門は、熊野地方の備長炭を仕入れて讃岐で売りさばき、讃岐米を仕入
れて熊野地方で売りさばくという商売をした。黒を白に変えたのである。しかし、持
ち船が小鳴門海峡で沈没し、破産した。このように廻船は海難事故の危険性が隣接し、
不安定であった。
 いさば船については、すさみ町の王子神社の絵馬にその姿が描かれて、残っている。
5石〜200石といった小型船で、乗り組員も3〜7名と少人数であった。大阪方面
との取引が主で、熊野の産物(鰹節、炭、材木、雁皮)を売り、米、酒、日用品を仕
入れてきた。熊野地方の暮らしに欠かせない交易機関であった。串本町史に、明治4
年(1971年)の江田組小廻船の調査が出ているので借用すると、

 ・和深浦 10隻(47人)   ・田子浦 2隻(6人)
 ・江田浦 2隻 (7人)     ・田並浦 16隻(50人)
 ・有田浦 4隻(27人)     ・串本浦 36隻(73人)
 ・出雲浦 1隻(? )     ・上野浦 5隻(22人)

 とあり、71隻、232人がいさば船に従事している。ここで、目立つのは串本浦
と田並浦で、両所とも典型的漁村で田畑が少なく、交易に出るよりほかに生業がなく、
やむをえない決断だった。余談だが、戦後初の民選知事だった小野 真次氏の生家も
「常蔵」という屋号の廻船業者であった。「常蔵」は、田並の大火で、家屋敷、倉が
全焼し、没落したのである。このようにいさば船は、2、3の例外を除いて富豪にな
ったものは少なく、割に合わない商売だったようである。
 下りのいさば船は、二木島、九鬼、浜島、御浜、四日市、桑名などの各港に寄港し、
取引をしたようである。嘉永元年(1848年)の「住吉丸勘定帳」によれば、煮柄、
節粉、薪炭の販売をおこなっているが、たいした儲けにはならなかった。というのは、
志摩地方から東紀州にかけては桑名の赤須賀船の商圏だったのである。
 この地方は山がちの地形のため、鉄道の開通が大幅に遅れ、昭和初年までは廻船が
地域経済を支えてきた。桑名は戦国時代には、堺と並ぶ自由都市で十楽の市と呼ばれ
た交易都市だった。赤須賀船は、明治後期頃より活発に活動した帆船で、日用品の売
買にとどまらず、嫁入り道具の世話、嫁・婿の口利きまで地域の生活に密着し、親類
同様に扱われたのである。地域経済に対していさば船と同じ役割を果たしたが、太平
洋戦争が始まると船舶・乗組員は軍部に徴用され、活動が弱体化した。同時にこの地
方の住民生活も困窮を極めた。太平洋戦争という国力を無視した愚劣な戦争の犠牲に
なったのである。
 このように、いさば船や赤須賀船は紀伊半島の経済を支えたが、鉄道の開通や戦争
による徴用で消え去ってしまった。歴史的遺物として残っているのは、30枚の絵馬
だけである。私も辻内 善右衛門の資料を捜したが、すでに焼却されていた。
 いさば船や赤須賀船は歴史の彼方に忘れ去られてしまった。



・「ケンケン漁」 


 私の母は串本町田並の生まれであるが、晩年の中筋 五郎吉と面識があった。よく
日向ぼっこをしていた好好爺であったそうだが、彼の偉業を知ったのはインドネシア
の領事館であった。入国審査のため領事館に行くと、田並村に注目した書記が「中筋
 五郎吉を知っているか。」と尋ねた。「遠縁にあたる。」と答えると、「彼は偉人
である。日本人の名誉を高めた。外務省の記録にも記載されている。」と教えてくれ
た。あの五郎吉爺さんがなぁと、びっくりしたそうである。
 紀伊半島は新漁法の開発地域で、新しい漁法が開発されると、他国に進出していく
ことを繰り返した。紀州漁民の関東・東北出漁、瀬戸内地方への出漁、古座鯨方の五
島・対馬への進出など枚挙に暇がないが、ケンケン漁はハワイからの輸入である。五
郎吉は明治32年(1899年)、ハワイに渡航した。渡航の動機は、友人村上 萬吉
の誘いの手紙であった。ハワイは鰹の有望な漁場であるとの情報を得て、五郎吉は長
さ7m、幅1.7mの小型鰹船を新築して、渡航した。ここが、五郎吉の企画力と計画性
のあるところで、手ぶらで渡ったのではない。現実性を備えたパイオニアであった。
成功する人物は、夢を追うだけでなく必ず現実的な方法を用意しており、単なる無鉄
砲とは異なっている。彼は集魚灯で鰯を捕獲し、生餌の鰯を撒いて鰹を集め、釣り上
げた。紀州半島で開発されていた漁法を実施したのである。結果は、天文学的漁獲量
となった。それまでのハワイ先住民の漁法では5、6匹が通常で、100本単位の水
揚げで市場は混乱し、魚価の安値は先住民の生活を崩壊させた。憤激した先住民たち
は五郎吉を襲撃し、何度も生命の危険にさらされた。しかし、五郎吉の偉いのは先住
民を恨むのではなく、撒き餌漁法を先住民に教えて共存共栄を図ったことである。こ
の五郎吉の行動は、異文化共生社会をめざす現代日本にも通ずるのではなかろうか。
利益の独占や詐欺まがいの悪徳商法を許す新自由主義ではなく、衆の利益を図る五郎
吉の精神こそが共生社会の精神として生かされなければならない。
 ケンケン漁の由来であるが、五郎吉と同じころ渡航した浅利 周次郎によると、

 土人は至極簡単な漁法で鰹を獲っていたのですが、その釣り道具を彼らは土人語で
ケンケンと呼んでいました。釣りの上部に細長い布を3枚結んだものがそのケンケン
で、カヌーなどを漕ぎまわり、これを海中で引っ張ると鰹などがかかるのです。これ
を帆布の代わりに、鶏の羽にすると鰹がよく掛かりました。

 とあって、自分の発明のように述べている。しかし、串本町田原村の座談会の記録
には、

 ケンケン船の名前は、ハワイの土人がケンケン鳥の毛でつくった疑似餌針を使って
いたことから出た名称といいます。

 とあり、真偽は定かでない。しかし、鳥の羽毛を使った疑似餌針が起源であること
は間違いないことと思われる。
 ケンケン漁も動力船が発明され、無線、魚群探知機、GPSなどが設置され、漁業
区域も三陸沖から対馬まで広がっている。紀州漁師の活動範囲も全国区になっている。
紀南でも串本町よりすさみ町や日置川町の方が、有名になっている。「ケンケン鰹」
や「ショラサン鰹」をブランド品にしようという動きもある。しかし、パイオニアと
しての五郎吉の功績を忘れてはいけない。漁業の先駆者として銅像を建てるべきでは
ないか。もっとも、当人は「いやがえ。あしは銅像になって鳥の糞をかけられるのは
きばってくらんし。」と断るだろうが……



・「さらば ラバウルよ」


 さらば、ラバウルよ また来るまでは しばし 別れの涙がにじむ
 恋し懐かし あの島見れば 椰子の葉蔭に 十字星

 名曲「ラバウル小唄」は南洋航路に従事した船員たちの愛唱歌であった。今となっ
ては歴史のかなたの話であるが、1919年のベルサイユ条約で赤道以北の西太平洋
の島々が日本の委任統治領となった。いわゆる「南洋」である。この島々の資源の開
発をになったのが、「南洋興発」と「南洋貿易」であった。
 この二つの会社は、成り立ちが異なる。「南洋興発」は西村製糖と南洋殖産の2社
が合併して、東洋拓殖の資本参加のもとに成立した。製糖に進出したが、1920年
の砂糖相場の大暴落は、2社を窮地に追い込んだ。困った原 敬内閣は、国策会社東
洋拓殖に救済を依頼し、石塚 英蔵総裁の決断で資本投資を行った。窮地を救われた
「南洋興発」は、業務の多角化を進め、製糖、アルコール、でんぷん、鰹節製造、り
ん鉱石の採取、椰子・綿花の栽培、ラワンの製材、海運貿易などに取り組んだ。社員
の活動区域は、広域を極め、北は東京、南はパプア・ニューギニア、東はトンガ諸島、
西はマレー半島・スマトラ島に及んだ。商社としては「北の満鉄、南の南興」と併称
された。とにかく、広大な西太平洋を貿易船が駆け巡ったのである。
 母方の祖父辻内 善右衛門は、アロー諸島ドボで南洋興発社員として、採用された。
南洋興発はセラム島アンボンに事業所を置き、松沢氏が所長として営業活動をしてい
た。ラワン材を製材にして、販売する仕事であった。月給45円であったが、これは
日本人だからで、琉球人は40円、朝鮮人に至っては、日給65銭という低賃金で植
民地である朝鮮人への民族差別であった。善右衛門は現地で活動していたが、太平洋
戦争が始まると捕虜交換船「興安丸」で、引き揚げてきた。アラビア半島のアデン港
からの葉書が残っていたから、蘭領インドシナで捕虜になった日本人はアデンで交換
されたのである。
 善右衛門が再び、ニューギニア島に渡ったのは、日本軍が蘭領インドシナを占領し
てからで、今度は軍属であった。この地域の地理や風俗に詳しいので、徴用されたの
である。それはニューギニア作戦の道案内に従事するためであった。辻 政信の起て
たこの作戦は、広大なジャングルと4000m級のビスマルク山脈を踏破するという
現地の実情を無視した無謀極まるもので、大勢の兵士を戦闘でなく、マラリヤと飢餓
と寒さで死亡させた。善右衛門も、マラリヤで死亡している。陸軍参謀の精神主義は、
太平洋戦争の汚点であるが、このような人物が戦後復活して代議士に当選するとは、
自己反省のない破廉恥な行動である。選んだ選挙民の戦争責任健忘症にあきれる思い
だ。
 「南洋貿易」の方は、田口 卯吉が中心となって、士族の授産会社として設立され
たが内紛が絶えず、明治26年(1893年)に解散した。そこで、和歌山県日置川
の資産家三本 六右衛門が出資して、南洋貿易日置株式会社として再出発したのであ
る。ところが、明治37年(1904年)日露戦争の物価騰貴とドイツによる日本商
人締め出し政策により、大打撃を受けた日置株式会社は村山合名会社と合併し、「南
洋貿易」と改称した。
 1914年、第一次世界大戦が勃発し、日本はドイツに宣戦布告し、海軍は南洋諸
島を占領した。ここに、彼我の勢力は逆転し、南洋貿易大発展時代が来るのである。
南洋貿易は、ミクロネシアを中心として活動したが、日本郵船の5000t〜900
0tクラスの貨物船で椰子の実からとれるコプラを買い付けた。そして、日本からは
食料品、日用雑貨、家具等を運んだ。コプラは石鹸、火薬、パン、キャラメルなどの
原料となったから、海軍が大量に買い入れた。南洋貿易は、海軍の軍需商社化したの
である。こうなると、「おいてに帆掛けて」といった状態になり、南洋貿易パラオ支
店に至っては銀座のデパート並みで、鉄筋の巨大ビルを建てた。東京にあるものは、
何でも売っていると豪語したほどである。南洋貿易の得意や思うべし。コロールにあ
った南洋庁の建物と覇を競ったのである。しかし、栄華は巡る世の習いというが、太
平洋戦争の敗北、アメリカによる委任統治は南洋貿易を解散に追い込んだ。パラオ共
和国として独立したパラオも経済的に自立できず、もがいている有様である。南洋貿
易時代を懐かしむ声が、国民間に根強く残っているのは、どう考えたらよいのだろう
か。



・「トンガ丸と伴野商会」


 串本町田並は偉人が輩出するが、これから紹介する伴野 安伸も経済界の傑物であ
る。
 フィージー島・トンガ島の交易から出発し、アジア各地に進出して財をなした。伴
野がフィージー島に渡航したのは、大正9年(1920年)頃だった。父亀吉の鮪漁
の後始末のためであったが、現地に残留した伴野は大正14年(1925年)に、トン
ガのタブ島に伴野商会を設立する。トンガ産のコプラを輸出し、日本から繊維、自転
車、陶器、セメント、薬品を輸入した。それを5隻の機帆船で各諸島に運び、巨利を
得た。しかし、伴野の成功を妬んだ英国系商社は、トンガ王国に圧力をかけ、ことご
とく妨害に出た。ここで、腐らないのが伴野の偉いところで、かれは商圏をニュージ
ーランド、オーストラリア、東南アジア、中国、朝鮮と拡大していくのである。それ
を昭和9年(1934年)から昭和17年(1942年)までの8年間で達成したのであ
るから、伴野の経営手腕は並ではない。この急成長の資金はどのようにして調達した
のであろうか。その詳細は謎のままである。
 彼は串本町から人材を募集し、各社に配置した。伴野商会は、「串本紹介」といわ
れたが、彼の活動の全貌は未だ、不明のままである。一例をあげれば、フィリピンで
椰子油、皮革、石鹸などの製造に携わったときは、現地人の雇用者2500人を数え
たといわれている。1938年には、国家総動員法が制定されており、軍部の協力な
しには実現しえない企業規模である。
 日本の敗戦は、伴野の資産を水泡と化した。人間生まれてくるときは裸であるが、
死ぬ時も裸で死ぬのである。どんな資産家でも、あの世にまで、資産をもって行けな
い。
 この伴野の友人に田並村村長小野 真次がいた。小野は剛直さを売り物にした政治
家で、初代公選知事になった人物である。政友会が主導権を握っていた県政界にあっ
て、野党民政党系の村長として冷や飯を食わされていた。そこに、トンガ王国のニュ
ータブ島の酋長から島周り船1隻建造の依頼が舞い込んだのである。親友伴野の紹介
でもあるし、アドバルーンを上げたくてしかたのなかった小野村長は、諸手をあげて
賛成した。
 さっそく、外国航路の船長として操船に定評のあった高岡 健吉に建造を依頼し、
75t、2本マストの機帆船を5万円で完成させた。ところが、後に大騒動のもとに
なるが、依頼者はトンガ王国の政府ではなかったのである。酋長の個人的な依頼だっ
た。それとは知らず、新造船は「トンガ丸」と名付けられ、昭和4年串本町袋港を出
発したが、小笠原諸島で機関故障のため袋港に帰港した。とにかく、8000kmも
あるトンガまで100馬力のエンジン付きの機帆船が辿りつけることは、不可能であ
るというのが常識であるが、小野や高岡には、そんな常識は通用せず、再度挑戦した。
7月9日、袋港を出港した。小笠原諸島、カロリン諸島、フィージー諸島と南下し、
トンガタブタブ島に着いたのは、出発してから66日目であった。日本からこの機帆
船で到着したと聞いたイギリス人の船長は、「勇敢だが、クレージーだ。」と、評し
たという。合理性の薄い行動は、後の太平洋戦争での「神風特攻隊」や「バンザイ突
撃」につながる日本人の特性といえよう。
 タブタブ島で大歓迎を受けた一行を待ち受けていたのは、トンガ王国書記官長のイ
ギリス人の次の一言であった。

 「代金は払えない。トンガ丸をもって帰ってくれ。」

 驚愕した一行は事情を調べると、建造依頼はトンガ王国政府ではなく、タブタブ島
の酋長であった。小野も高岡もトンガ王国政府の依頼と勘違いしたのである。66日
の太平洋縦断の冒険航海も徒労に終わった。
 しかし、船の始末をどうするかが、今後の課題となった。すったもんだのあげく、
仲介者の伴野が買い上げたが、アングロサクソン人のアジア系の対する底意地の悪さ
は始末に負えない。あきれた話であるが、確認をとらなかった小野村長も軽率のそし
りを免れない。後に重厚な政治家として、名をなした小野も若かったのである。
 この話には後日談がある。和歌山県知事となった小野は、昭和36年(1961年)
トンガ王国ツポウ5世から、鮪漁船の建造を依頼された。今回は、トンガ政府からの
正式な依頼である。前回の雪辱を期した小野は、これに協力し鮪漁船を完成させた。
鮪漁の技術指導を兼ねた日本人の乗組員と船長が選抜された。候補に上がったのは、
串本町潮岬の鮪漁船のベテラン、直井船長であった。この人選には私の母方の大叔父
辻内 菊松も関わっていた。小野知事から依頼された辻内は、直井に決定し、本人の
承諾を得た。トンガに向かった鮪漁船は300t以上の新鋭船で、トンガ王国の未来
を切り開く船として、期待されたが、初操業の日に南太平洋で消息を絶った。海上で
発生した竜巻で遭難したのである。両者の善意に基づく壮挙であったが、残念な結果
に終わった。
 直井船長の長女と同級生であった私も、彼の葬儀に参列したが、遺体や遺品の見つ
からない中での葬儀だったことを記憶している。300t以上の漁船を巻き上げてし
まう竜巻の存在が信じられず、どこかの島で生きているのではないかと空想したもの
である。串本とトンガとは、太平洋を挟んで8000kmの遠距離にあるが、太平洋
を挟んだ隣国なのである。



・「アラフラ海の白蝶貝」


 わたしの父、鈴木八千穂は「深水」専門のダイバーであった。「アラフラ海の真珠」
の著者小川 平氏の話によると、ダイバーには「浅水」と「深水」の二種類があり、
20m以内は「浅水」で、それより深いと「深水」となるのである。潮岬は名ダイバ
ーが輩出したが、「浅水」ダイバーとして名をはせたのが、村詰 平吉である。名ダ
イバーの資質は、勇敢かつ根気があり、視力が良いことである。真珠貝(白蝶貝)は
海底にあり、それの発見は光量が少ないため難しい。したがって、根気よく探さない
と見つからないのである。村詰は危険な海へは絶対に潜水しなかった。潜水病を避け
るためである。「無事これ名馬」というが、慎重に状況を判断する力が村詰を名ダイ
バーにした。
 鈴木 八千穂は「深水」専門で危険な海に潜ったが、白蝶貝の水揚げがよく若くし
て名ダイバーとなった。余談だが、ダイバーというのは採貝船では天皇で、どんな無
理でも聞いてもらえた。同じ乗組員であった古老の話では、採貝に出発して20km
行ったとき、突然唐辛子の積み込みを忘れた八千穂は、取りに帰ると言い出したので
ある。今から操業しようという時になんてことだと、乗組員は思ったが、稼ぎ頭のダ
イバーの要求には逆らえず、帰港したのである。「やっちゃんには大汗かいたよ。」
というのが、その感想であった。
 以上のような木曜島生活を送っていた八千穂も、1941年12月8日、採貝から
帰港すると、桟橋にはオーストラリア兵士が機関銃を構えて待っていた。敵国人とし
て、逮捕されたのである。木曜島の日本人は、ヘイ収容所に収容された。民間人と軍
人の収容所だったが、カウラ収容所のような暴動・脱走は発生せず、平穏だった。
 ヘイ収容所はニューサウスウェールズ州のヘイ市に設置され、630名が収容され
た。
 待遇は至って良好で、肉とパンが中心であったが、収容者は満足せず、米と魚に切
り替えさせた。わざわざ、ジャワから飛行機で空輸したのである。オーストラリアは
白豪主義であったにもかかわらず、紳士的であった。しかし、オーストラリア軍が捕
虜の指紋を採取するといった方針を伝えたことから、事態は一変する。収容所所長か
ら、指紋採取を告げられた滝本 寅吉団長(串本町須江)は断固拒否をした。
 すると、売店娯楽施設の使用禁止といった報復がきた。とくに、タバコ売店の閉鎖
が厳しく、喫煙者は困ったが、かえって捕虜の結束を高めた。収容所側は強制指紋採
取に打って出て捕虜とトラぶったが、何とか採取を終えた。その結果、解禁になった
タバコ売店の前に行列ができたが、タバコを手にした喫煙者の幸福そうな様子は捕虜
には見えなかったそうである。八千穂も収容所内で料理番をしていたが、捕虜の残飯
量の多さには驚いた。ぜいたく三昧といった有様で、日本軍の捕虜になった外国人が
虐待されたのとは対照的であった。捕虜たちは「ヘイ収容所の歌」をつくって無聊を
慰めたが、いくら待遇が良くても捕虜には自由がないのである。

 囲いの生活 幾月ぞ   犠牲は覚悟の前なるも
 自由の秋は いつなるぞ

 1945年8月15日、日本の敗戦によって、自由が到来した。しかし、「生きて
虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓で洗脳された軍捕虜たちは敗戦を信ぜず、敵の謀略で
あったと主張した。「勝ち組」と「負け組」とが、捕虜の中に発生した。神州不滅を
呼号した「勝ち組」は「負け組」を裏切り者扱いし、一触即発の空気が流れたが、民
間人捕虜は敗戦を認めていた。特にカウラ暴動の生き残り組は、敗戦を認めず報復の
手段を模索していた。 そこに、日本からの引き揚げ船大海丸が入港した。船員に確
認すると、日本の敗戦は事実であった。さしもの、「勝ち組」も引き揚げざるを得ず、
乗船した。ところがである。船内の待遇は収容所よりひどく、食事が惨憺たるもので
あった。引き揚げ者の不満が爆発し、船長を監禁し、食料の自主管理を決行した。米
や副食物が放出され、船内の空気が一変した。この蜂起の主力となったのが「勝ち組」
の面々で、両者のわだかまりも融けた。出港して33日めに神奈川県浦賀に到着した。
そこで解散し、各自が帰郷したのである。
 帰郷した八千穂は沈没船からの積み荷の引き揚げやサルベージの仕事をした。彼が
再びアラフラ海に出漁するのは、昭和28年(1953年)である。戦前アラフラ海
で白蝶貝を採取した船主たちには、一攫千金の夢は忘れられなっかった。また、ダイ
バーたちにとっても、戦後の日本経済の復興は朝鮮特需で一息ついた有様で、国内で
は良い儲け話がなかったのである。「三つ子の魂、百まで」というが、一度見た夢は
なかなか捨てられない。
 1953年5月14日、25隻の採貝船(ダイバーボート)は,串本港を出港した。
わたしも岸壁で父の乗船した南水丸を見送ったが、「万歳、万歳」「頼むぞう」「稼
いでこいよう」の声が湧き上がった。この熱気は串本港始まって以来であり、空前絶
後の事件であった。敗戦で喪失した日本人の自信回復の一大イベントだった。悲壮感
は家族にも見られず、期待感が漲っていた。6月にアラフラ海に到着した。12年間
採貝していなかったので、白蝶貝は豊漁で、2か月で400tの水揚げをはたしたが、
オーストラリア政府の規制が入り、総水揚げは950tに終わった。私の父は、南水
丸の首席ダイバーであったが、年収は六十万円ぐらいあった。大卒公務員の年収が十
万円であったから換算すると、2008年の貨幣価値では1500万円にあたる。そ
のため、私はわりあい豊かな少年時代を送った。
 アラフラ出漁は1961年、中止に至ったが、父は潜水病で下船し、漁師になった。
しかし、船員の障害年金は小中の校長の年金より多く、私たち一家の生計を支えた。
それで、私の大学進学の夢はかなった。1980年代、親孝行のつもりで木曜島訪問
を誘ったが、二度と行きたくないというのが答えだった。危険と隣り合わせの作業で、
大勢の仲間が眠っているアラフラ海を懐かしむ表情はなかった。生きて帰ってきたの
が、幸運だったのである。父は平成7年(1995年)9月20日、81歳で永眠し
た。戒名は、和温八正居士であるが、戒名通りの後半生であった。