紀伊半島は黒潮の流れに、頭を突っ込んだような地形であるため、過去幾多の海難事
件が発生した。その中でも、国際問題に発展した海難事件もいくつかあり、それを中心
に紹介したい。



・「ノルマントン号事件」


 歴史の教科書に不平等条約の改正問題のきっかけとなった事件として、必ず登場す
る事件であるが、この事件ほど不可解な事件はない。歴史ミステリーというジャンル
があるとすれば、筆頭にあがる事件である。もともと、熊野灘は開国以来、外国船が
「魔の海」と呼び、危険な海域として意識していた。1870年(明治3年)に紀伊
大島に樫野崎灯台が建設されたほどである。特に、大島から潮岬にかけては海流が早
いうえ、暗礁が多くて江戸時代から船の墓場と呼ばれていた。
 ノルマントン号は、イギリス船籍の3000tの2本マストの機帆船である。積み
荷は茶、陶器のたぐいで、船長がJ.W.DRAKE、イギリス人船員とインド人水
夫39名、日本人乗客25名が乗船していた。1886年10月23日に横浜港を出
港し、神戸港に向かっていた。乗客は、日本政府の役人や貿易商が中心で、社会的地
位の高い人が多かった。24日夜半、暴風雨に遭遇したノルマントン号は潮岬沖で沈
没し、翌日、紀伊大島須江地区の漁民の決死的救出活動で、イギリス人12名、インド
人3名が生還した。暴風吹きすさぶ荒海に船出して、15名もの人命を救助した須江漁
民の行動は高く評価されるべきである。一行は、串本町の矢倉 甚兵衛宅に一泊する
と、26日あたふたと神戸に出発した。ここらが、胡散臭く後に疑義を醸した。
 ここで事件を整理してみると、沈没場所は潮岬沖で救出場所は須江沖、生存者は2
5名、死亡者は39名(日本人25名、インド人14名)となっている。イギリス人船員が
全員生存、日本人乗客全員死亡が注目される。なぜこんな極端な結果になったのか。
遺族でなくても、疑義が生じる。海員法では、海難事故の場合、乗客の脱出が優先さ
れ、船長は全員退避のあと最後に脱出するのが規定だ。船長が助かって、乗客が全員
死亡というのは、ありえないのである。ノルマントン号内で何があったのかが、解明
されねばならない。
 11月1日の神戸領事館でおこなわれた海難審判では、DRAKE船長は退船を勧め
たが英語を理解しなかったので意思が通じず、船室に籠って出てこなかった。やむを
得ず、乗客を見捨てて脱出したので、不可抗力を主張した。しかし、貿易業務に携わ
る貿易商が英語を解しないとは、不可解だ。責任回避に過ぎず、通用しない。驚いた
ことに船長の言い分が通り、全員無罪の判決が出た。領事裁判制度が不当な制度であ
ることを、さらけ出したのである。
 これにいち早く反応したのが、旧幕臣で元老院議員の大鳥 圭介であった。11月6
日の「時事新報」で、判決の不当性を弾劾した。また。フランス人画家ビゴーも「横
浜新聞」にボートで脱出するイギリス人船長と見捨てられたインド人、日本人の挿絵
を掲載し、判決を非難した。反政府活動を展開していた自由民権派も、政府に強硬姿
勢をとることを要望し、言論界は沸騰した。11月12日、日本政府はイギリス人船長を
殺人罪で告訴した。そして、調査団を派遣したのである。
 11月21日、内務省参事官黒田 綱彦を団長とする調査団は勝浦に到着し、太地の漁
師の証言をもとに勝浦沖を捜索しだした。24日夜半に爆発音を聞いたという、はなは
だ不確かな証言であるが、潮岬沖を主張するDRAKEの証言と異なるため採用され
たのである。黒田の判断は事実の究明より、政治的思惑を優先するという錯誤に基づ
く。DRAKE船長の証言の信憑性を弱めたかったのである。この姑息な判断が、大
勢の善意の捜索を徒労に導いた。潜水夫の懸命の捜索にもかかわらず、船影は見えな
い。とうとう某潜水夫の深海でマストの影をみたが、潜れないという証言を採用し捜
索を終えた。まったく理不尽極まる話である。当事者の主張する沈没場所を捜索せず、
不確かな証言によって別の場所を捜索するのは言語道断の仕打ちである。遺族の心情
を考えると、日本人全員死亡の原因が究明されないため、一件落着とはいかなかった
のではないか。しかし、政府は那智勝浦町狼火山頂上に「ノルマントン号遭難記念碑」
を建立して、幕引きをはかった。真実を究明せず、臭いものに蓋では犠牲者の霊も浮
かばれまい。まったくお粗末な対応で、官僚主義の悪弊が既に顕在している。
 このイギリス領事や日本政府の混乱をみて、事態を重く受け止めたのはイギリス本
国政府である。ビクトリア女王の勅命が出て、再審判を命令した。12月7日、横浜領
事館で開かれた公判で、DRAKE船長は怠慢殺人罪で有罪、禁固3か月という微罪
を言い渡された。25人の人命の重さを考慮しない判決は、改めて領事裁判制度が国辱
であることを示した。
 学生や演歌師たちは、「ノルマントン号沈没の歌」や娘義太夫で、不当性を訴えた。

  ノルマントン号沈没の歌 
              作者不詳

 岸打つ波の音高く 夜半の嵐に夢覚めて
 青海原をながめつつ わが同胞はいづくぞと

 叫べど叫べど声はなく 探せど探せど影もなし
 噂に聞けばすぐる日に 15人の同胞は

 これがきっかけとなって、この事件が政府や遺族、政党間の問題から国民的問題と
なった。とくに、日本人乗客が鍵をかけられて閉じ込められたという噂は、事実か否
かの確認もないまま、宣伝された。ノルマントン号の船内捜索がなされなかった欠陥
が出てしまった。黒田の失態は、事態解決には向かわず、DRAKE船長の言い分が
通る結果となった。もっとも、上司の井上外務卿から言い含められていたのなら別で
あるが……
 憤激した国民は、政府に不平等条約廃止を要求しだした。もとより、政府は改正を
求めていたが、鹿鳴館外交という姑息で屈辱的な政策をとっていたため、政府へ非難
の矛先が向いた。1887年9月、井上 馨外務卿が辞任、1888年、伊藤 博文内閣が総
辞職したのである。一海難事件が、国際問題に発展したのは、帝国主義の横暴ぶりに
苦しんでいた国民の正義を求める怒りが大きく作用した。
 しかし、この事件の影響拡大を恐れたイギリス政府は、DRAKE船長の過失に事
件の本質を矮小化したのである。領事裁判制度という主権侵害の悪法が撤廃されたの
は、1894年の日英通商航海条約まで待たねばならなかった。1858年の日米修好通商条
約締結から36年後に、やっと領事裁判制度が撤廃されたのである。



・「エルトゥールル号事件」


 2008年6月、トルコ共和国大統領ギュエレレ氏が、串本町を表敬訪問した。一
国の大統領が本州最南端の過疎の町になぜやってきたのだろうか。

 1868年明治政府が成立すると、アジアの東端の皇帝に西端の皇帝が表敬の使者
を送った。1890年、オスマン・パシャを使節にした一行は、表敬訪問を無事終え
て帰国の途についた。9月16日、紀伊大島沖で台風に遭遇し、樫野崎付近の船甲羅
で座礁し、沈没した。死者は推定650人、生存者は69名の大惨事となったのであ
る。熊野灘で起こった史上空前の事故に、大島村は大パニックに陥った。人数が多い
上に外国人である。救助にしても、保護活動にしても前例がない。その困難さに対応
したのが大島村長沖 周であった。以前、ノルマントン号事件で不本意な結末を迎え
た沖は全身全霊を尽くして対応した。
 事件は、樫野崎灯台に髪を振り乱した大男が辿りついたことから始まった。何やら
わめいているが、言葉が通じない。困惑した職員たちは、衣服や薬を与え、国旗の一
覧表を見せると、オスマン・トルコ帝国を指摘した。トルコの軍艦の遭難事件と理解
した職員一同は、救助活動に取り組み、大島村役場、樫野区長、須江区長に連絡した。
遭難したのはエルトゥールル号、排水量2344t,乗組員678人、艦長アリ・ベ
イが指揮する老朽艦であった。非公式な乗員を含めると、700を超える大世帯で
、 被害者の数が類を見ない規模である。これは、大島だけでは手に負えないと判断した
沖は、県に連絡し、支援を要請した。負傷者の救護態勢、行方不明者の捜索態勢に忙
殺されたが、食料、薬品、医師が不足していた。住民は大切にしていた卵や鶏を提供
し、親身になって世話した。生存者一同、感激に震えた。
 18日から遺体の捜索、収容が始まり、400名近い遺体を収容した。21日に灯
台南西の原野に埋葬したが、オスマンパシャの遺体は見つからなかった。難破した時
の水蒸気爆発で、四散したのであろうか。生存者は海軍の「八重山」とドイツ軍艦に
分乗させて神戸に移送し、10月5日に故国に帰還した。ノルマントン号の時と異な
り、捜索が一致団結、円滑に行われた。村民の献身ぶりは、人類愛の発露であった。
ノルマントン号のイギリス人との違いを確認されたし。
 1936年(昭和11年)トルコ共和国大統領ケマル・アタチュルクは、樫野崎に
弔魂碑を建立した。トルコ語で日本とトルコの永遠の友好を築くと書かれている。そ
の後、5年に一度、慰霊祭が開かれているが、雨が降ることが多い。地元では、犠牲
者の涙雨と呼んでいるが、わたしには感謝の涙に思える。慰霊公園の管理は、地元民
が奉仕活動で行っている。毎年、地区民が共同で清掃するが、2008年に至っても
続いている。また、トルコとの交流も絶えず、大島中学校の修学旅行は東京のトルコ
大使館を表敬訪問するのが、定番となっている。次のメッセージは大島中学校の生徒
のトルコ大使への挨拶である。

 貴国と我が国はアジアの西と東に位置して、距離は離れていますが、隣人であり
兄弟国です。末永く友好が続くことを希望します。大使閣下をはじめ、スタッフの
皆様のご多幸をお祈りします。チョクテシェキュルエデリム。




・「良栄丸事件」


 1927年(昭和2年)、アメリカ合衆国マーガレット・ダラー号が、1隻の漂流
船を発見した。船内を捜索すると、2体のミイラ化した遺体と多数の人骨が発見され
た。シアトルに曳航され、日本領事館に引き渡されたこの漂流船は、和歌山県西牟婁
郡和深村船籍の鮪延縄漁船、良栄丸19tであった。船長は三鬼 登喜造で、11人
の乗組員とともに、1926年9月に和深村田子を出港し、鮪延縄の操業を始めたの
である。発見されたのが、1年後の10月31日、約10000km離れたアメリカ
合衆国のワシントン州フラッター岬沖であるから、この間に何が起こったのだろうか
が謎となった。この事件を報道したアメリカの新聞は排日運動に迎合し、真実を調査
せず、女性を巡る殺人事件、人肉試食事件としてスキャンダラスなキャンペーンを張
った。排日世論を喚起させようとはかったのである。
 ところが、航海日誌が公開されると、事態は意外な展開をみせた。そこには、友愛
と相互扶助に満ちた海の男らしい行動が、つづられていた。航海日誌によれば、12
月7〜9日にかけて、千葉県銚子沖で操業した良栄丸は12日に機関部のクランクが
折れ、漂流を始めた。帆走で、帰港できると楽観していた一同は、事態を深刻に受け
止めずに救助を確信していた。ところが、漁船や汽船に発見されず、良風に恵まれな
かった良栄丸は、黒潮に乗って漂流を始めた。15日現在の食料は、以下の通りであ
る。

 米4俵(1石6斗)  醤油3升  酢4合  大根4本  ごぼう6本
 芋500もんめ    みそ1貫め  茶1斤  かんぴょう100もんめ
 メカ魚200貫    サメ魚20本   イカ300枚

 12人の食料として、4か月はもつと計算したが、1年余りの漂流になるとは、神
ならぬ乗組員は夢にも思わなかった。
 1927年3月6日、食料不足に陥った一同は遺書を書いた。

 機関クランク部破れ、食料白米1石6斗にて今日まで命を保ち、汽船に出会わず、
何の勇気もなくここに死を決す
                 大正16年新3月6日

  同年3月9日、機関長細井 伝次郎、13日直江 恒太郎、20日井沢 捨治、
27日寺田 初造と横田 良之助、29日桑田 藤吉と三谷 寅一、4月6日辻内 
良治、14日詰光 勇吉、19日上平 由四郎の順に死亡している。野菜不足による
壊血病が死因であろうか。残ったのは、三鬼船長と松本 源之助で、最後まで航海日
誌を執筆したのは、松本である。
 5月11日、「船長の小言に毎日泣いている、病気。」が絶筆である。発見された
10月31日までが空白であるから、その後に相次いで、死亡したと思われる。漂流
原因の機関の故障であるが、以前からエンジントラブルが多く、乗組員や家族に不安
を与えていたが、改善の努力が十分なされていたとは言い難い。船主側にも、経済的
余裕がなく、運を天にまかす商法だったように思われる。延縄も小資本による経営が
多く、十分な安全措置が取られなかったことも、この悲劇の原因だろう。
 三鬼船長が、長男にあてた遺書を紹介して、終わりたい。

 キクオ

 トッタンノ イフコトヲ キキナサイ、オオキクナリテモ、リョウシハデキマセン、
 カシコクナリテクレ タノミマス、ハハノイフコトヲ ヨクキキナサレ



・「ナマコ船遭難記」


 串本町潮岬高松寺の境内南側にひとつの石碑が建っている。建立したのはオースト
ラリア人ホッキングで、遭難した従業員のためにわざわざ来日した。当時のオースト
ラリアは白豪主義の政策をとっており、アジア系の労働者には厳しい規制が実施され
ていた。しかるに、ホッキングは潮岬小学校に寄付をおこなうなど始終好意的行動を
とった。なぜホッキングは、こんな行動をとったのか。石碑の裏面には、以下の文字
が刻まれている。

 大正5年4月13日 タウン号乗組員、海鼠採取中、豪州マカイ沖にて遭難。

 大正6年10月12日
 船主 英人 在木曜日島 RAC ホッキング建之

 海鼠採取に出かけたタウン号がオーストラリアヨーク半島マッケイ沖で遭難し、乗
組員の瓜田 亭次郎、春日 喜三平、林 重吉,竹田 脩吉、東 房一、瓜田 房次
郎の6名が死亡したのである。1916年、日本が第一次世界大戦の景気に沸いてい
たころである。海鼠は干し海鼠にして中華料理の食材にするが、アワビと並んで高価
であった。それゆえ、専門の採集船が操業したのである。ホッキング氏は、潮岬人を
贔屓にしたが、就業態度が良く水揚げが多かったからである。とくに、瓜田 亭次郎
はドル箱ダイバーで、ホッキングのお気に入りだった。
 海鼠は日本人には,なじみのない食材だが、中華料理においては、ふかひれ、干し
あわび、ツバメの巣と並ぶ高級食材で、中国市場では高級商品であった。したがって
、17世紀後半からマカサーンと呼ばれるマレー系の交易業者が、海鼠採りにオース
トラリアに来ていたのである。海鼠の需要はここだけで賄えず、江戸時代の長崎貿易
は、中国産の絹製品と俵物(海鼠、アワビ、ふかひれ)のバーター取引だったのであ
る。
 海鼠採取で高収益をあげていたホッキングは、従業員に無理な操業を戒めていたが、
仕事熱心な従業員たちは聞く耳を持たず、お金を貯めて日本に帰ることを目的として
いた。出稼ぎ労働者と使用者の間に、危険への認識に食い違いがあった。遭難の経緯
は石碑の表面に述べられている。

 嗚呼 汝等が柔順に 老爺の勧告に 従えば 行く末 永き貴き身 斯くも無残に
散らまじを しかれど仰がん 男男しくも 虎穴に入りて 玉得んと なせし業こそ
貴けれ 
 汝等 既に許された 御霊は神に 容れられた なれど嘆かむ 荒れ狂ふ 浪に消
えにし 汝等をば (カタカナをひらがなに改訂)

 台風は温帯だけでなく熱帯でも猛威をふるう。タウン号は運が悪かったとしか言い
ようがないが、避けられた遭難でもあった。海が荒れ、時化模様となったため、操業
中の海鼠船は引き揚げ始めた。13日午後、同船に出会った長崎県人の海鼠船は、天
気が崩れるから一緒に、ケンス港に帰ろうと誘った。しかし、もう2,3日操業して
満船にしてから帰るよ、という返事であった。タウン号はそのまま操業し、同日の夜
半に遭難したのである。まさに「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」の精神構造である
。串本町では、潮岬人は「意気っている」といわれるが、まさにそうで、戦後のエコ
ノミックアニマルの原型が見られるのである。同郷人として、哀悼に堪えない。ホッ
キングの心情もまさにそうであった。石碑から、彼の慟哭を聞くのは、わたしだけだ
ろうか。