・「備長炭」


 熊野地方は照葉樹林帯の東限のあり、椿、楠,ウバメ樫が自生している。人名や地名
にも、白椿や楠、樫山、樫原などがみられ、照葉樹林独特の文化が育まれてきた。とく
に焼き畑や炭焼き、餅なし正月、栃団子、ごうらによる山密採取などは、水田耕作民に
見られない風習である。
 備長炭は、ウバメ樫を原材料にして焼いた固炭で、火持ちが良いので有名であった。
俗説に、江戸の炭は85%が紀州産の備長炭で、24時間持つので経済的なため飛ぶよ
うに売れた、という。また、新宮藩主水野氏は、表高3万5千石だが、実質10万石は
炭のため、という。事実ならば、まさに黒ダイヤであるが、はたして本当だろうか。
 奥村 隼郎氏の研究によると、熊野川町小口の商人中村 文左衛門家の文書や「丹鶴
日記」から分析して、製炭額は24万俵で売上は8150両、純益は650両になる。
確かに、利益はあがっているが、巷間喧伝されるような額ではない。新宮藩は炭の専売
制を行って利益の独占をはかり、新宮城に炭の仕入れ方を置いて価格の操作を自在に行
ったようにいわれるが、実態は以上の通りである。江戸時代の藩は藩財政を公開しなか
ったため、実態が分らないまま噂だけが流布する傾向があった。商人たちから、借金を
しやすくするため、誇張したのである。余談だが、1869年の版籍奉還で、和歌山藩
が明治政府に提出した財政目録では、金120万両、銀700貫(金11900両)、銭
72万貫の借金があった。和歌山藩政は、膨大な商人たちからの借金の上に運営されて
いたのである。現在の貨幣価値に直すと、2500億円となるが、藩収入の30年分の
借金である。幕藩体制が滅んでしまったのは、商人たちからの借金が不可能になったと
いう面が大きい。
 2008年現在の、中央政府と地方自治体の合計の借金額は800兆円に及んでいる。
日本史上最大の借金であるが、財政破綻をした徳川幕藩体制は大政奉還をして終焉した。
江戸幕府の轍を踏んでいるような危険極まる財政運営である。財政破綻を防ぎ、国民へ
の借金肩代わり政策を避ける為政者が必要であるが、政治家にその自覚がないから国民
は悲惨である。
 和歌山県も紀州藩と同様の財政状態であるが、知事や政治家に危機意識が乏しく、無
駄な公共事業を継続しているのには、あきれるほかはない。たとえば、2008年6月
県議会で26億円の同和事業高度化資金債権放棄が提案されたが、和歌山県の税金を使
って大阪府の業者に貸与しているのである。2年で事業が失敗したため、出資者の県が
損失を補填することになったが、県民の税金を使うのである。26億円の税金が未回収
であるから、事業を承認した知事や議会の責任は重大である。しかし、だれも責任をと
るわけではないし、後始末だけが県民に押し付けられる。このような無責任極まる公金
喰いが、繰り返される「民主」政治に疑問をもたざるをえない。選挙で「民主的」に選
ばれた首長や議員が、公共事業という公金喰いに奔走する「民主」政治より、自助努力
によって成り立っていた徳川封建政治のほうがましである。歴史は進歩すると教壇で生
徒に教えてきたが、明らかに誤まりで深く反省する。
 以上のごとく、政治は悲惨だが産物は優秀で、備長炭はブランド品として売れ筋商品
となり、昭和30年代前半までは生産されていた。熊野の山々では炭焼き窯が活動して
いたのである。ちょうどその頃、小学生だった私の同級生にT君がいた。お父さんは田
並村の奥山で炭を焼いていた。T君は通学に小一時間かけて登校したが、あるとき就学
前の弟を連れて登校したのである。もちろん、クラスは好奇心であふれかえり、弟は宿
直室で用務員さんが世話をしたが、炭焼きの暮らしの一端を垣間見た思いだった。T君
はふだんから孤立的でみんなと遊ばず無口だったが、家事や育児の手伝いで忙しく遊ぶ
暇がなかったのであろう。一度、T君のお父さんが、我が家を訪れたことがあった。背
中に炭俵を背負い、売って回っていたのである。炭1俵の代金を受け取ったお父さんは、
真黒な顔を綻ばせ、酒を買って帰るんやといっていた。T君や弟への菓子でなかったが、
過酷な労働の疲れを癒すにはアルコールが必要だったのだろう。
 坂本 保喜氏は古座川町に在住している現役の「備長炭製炭士」である。18歳から
備長炭を焼き続けてきたが、製炭作業の様子を「聞き書き・紀州備長炭にいきる」で以
下のように、語っている。

 ・原木はウマベを使うが、重うて狂いやすい。取り柄というたら固いだけ。そんなウ
  マメが焼いたらけっこうな銭にかわる。炭焼きいうんは面白いもんよのう。
 ・運搬は木馬を使う。木馬はウマベを下ろす木の道のこと、今も木馬を使うのはわし
  くらいのものや。
 ・窯詰めのとき、ウマベの曲がりをきれいに直して、窯いっぱいに詰めるんや。
 ・炭化は窯の煙の色で見る。でも、いちばん頼りになるのは鼻や。生焼けも焼けすぎ
  もみな煙の臭いで分かるよ。
 ・備長炭の質はアラシ(ネラシ)の作業で決まるよ。火が金色にならにゃ、銭になる
  炭はできん。アラシに入ったら、たとえ、親が死んでもやめられんの。


 このような製炭過程のなかで、T君も過酷な日常を過ごしていたのかと今になって思
うが、当時は炭焼きの子供といえば、風呂に入らんから臭いと敬遠されていた。わたし
もT君とは格別親しいわけではなかったが、わたしの転校とともに互いの消息は途絶え
た。わたしの記憶の中から、T君は消え去った。
1970年の夏休み、わたしは帰省のため串本駅に降り立った。和歌山大学を卒業して
教師になっていたわたしは「鈴木君、元気ですか。」と、見知らぬ青年から声をかけら
れた。「失礼だが、どなたですか?」と、尋ねたわたしに「小学校の同級生のTです。」
と青年は答えた。
11年ぶりの再会であった。T君が声をかけたのは、わたしにお礼をいうためだった。
図工の時間に絵の具を買ってもらえないT君が手持ちぶさたにしていると、わたしはこ
の絵の具使いなよと、貸したそうである。T君にとって、天にも昇る心地だったそうで、
いつかお礼を言おうと気にかけていたらしい。わたしは、すっかり忘れていたが、T君
が快活な青年に変貌している現状に驚いた。聞けば、大阪の工場で働いているらしい。
毎日が楽しく、充実しているそうである。それを聞いて、炭焼きの生活がいかに、苛酷
であったかを納得した。
   2008年現在、古座川流域でも備長炭を焼く人は、ほんの数名である。備長炭も、
鰻屋で使用するぐらいの用途しかない。しかし、かつては古座に紀州藩の仕入れ方が置
かれ、江戸に出荷して藩財政の一端を支えたのは、材木と熊野炭や備長炭だった。過去
の栄光を懐かしむだけでなく、技術保存をしていくことが後世の課題だろう。



・「焼畑とめはり寿司」


 熊野の地図を開いて地名を調べると、田辺市本宮町に切畑、新宮市熊野川町に畝畑な
ど焼畑と関連した地名にお目にかかる。切畑は、焼き畑をする際、火よけ地の伐採をす
るのでつけられたようだ。もっとも、東日本では、「草里」と呼んでいるが、焼き畑を
終了した後、放棄地に草が茂っているようすを指している。焼畑などは、原始的農業だ
から米より生産性は低いが、案外山民の暮らしに重要な位置を占めていた。
 日本農業史は「水田偏向史観」とでもいうべき、水田耕作が中心のように記述され、
生徒に教えているが、大いに間違っている。なんとなれば、日本の領土面積は37万平
方キロメートルで平地や丘陵地は25%である。残りの75%は山地であり、ここが農
地として開発されないのが不思議である。一例をあげれば、1645年(慶安2年)の
武蔵の国土地台帳の水田と田畑の石高の比率は、以下の通りである。(木村 茂光  
「ハタケと日本人」)


田方 48万9528石2斗9升6合2才

畑方 40万1799石7斗4升8合7勺8才


面積の比率は、

 水田 約4万4503町歩

 畑地 約5万7400町歩


となっており、収穫高は水田の方が多いが、耕作面積は田畑の方が多いのである。それ
は地域差によると反論があるかもしれないが、平地の3倍の面積の山地が耕地化されな
いのはおかしい。もちろん、水の便が不便だから、水稲栽培は天水田に頼るしかないが、
畑作作物は意外と天候不順や災害に強いのである。水田が不作の時の予備的収穫物に雑
穀が畑地に植えられ、本格化していったと考えられる。
 雑穀に数えられたのは、大麦、小麦、大豆、小豆、粟、稗、黍などである。畑地の作
物はそれ以外に、野菜、桑、漆、柿、栗、栃などの換金作物や果樹などが栽培されてい
る。したがって、水田耕作民=富裕、畑作耕作民=貧困といった図式は成り立たない。
桑は蚕の食料として、漆は漆器の原料として価値が高かった。中世では、年貢は米より
絹や塩、鉄製品が主流であり、有名なアテガワの農民も6丈絹を年貢に納めていたくら
いである。焼畑についても起源は明らかではないが、縄文時代から行われてきた農法だ
ろう。資料に見えるのは、「日本三代実録」867年(貞観9年)3月25日の条に、
大和国をして、百姓が石上神山を焼きて、禾豆を播蒔するのを禁止せしむ とあるのが、
初見である。しかし、史料にないから焼き畑がなかったわけではない。人口が増え食料
が必要になると、石上山のような神体山でさえ焼かれるのであるから、集落から離れて
いても適地さえ見つかれば耕地化された。弥生時代の集落遺跡に、高地性集落がある。
軍事集落説が定説であるが、焼き畑の出造り集落の場合もあったのではないか。軍事的
重要拠点でない集落は、焼き畑耕作民の集落であろう。紀州藩では、備長炭の原木を保
護する必要から、たびたび焼畑禁止令を発布したが守られなかった。この禁令は処罰を
伴わない形式的なものであったため、古座川流域の山民は無視して焼畑耕作を続けた。
とかく、禁令が発布されると厳しく守られたと歴史教育では教えているが、事実とは異
なっている。「慶安のお触書」等も、記載通り実施されたのであれば、徳川幕府が265
年続くはずがない。農民は面従腹背で過ごしたのである。教育界の教条主義には、慨嘆
するほかない。
 さて、熊野地方の焼き畑では、漬物用に高菜を栽培した。日当たりの悪い畑の方が葉
がやわらかく漬物に良い。焼畑で栽培した高菜は条件が良く、その古漬けがめはりずし
に用いられた。浅漬けの高菜は辛いが、古漬けの高菜は酸っぱい。醤油につけた古漬け
の高菜に曲げワッパに入れた麦飯を包んで、頬張るのがめはりずしなのである。熊野地
方の山民の常食であるが、戦後の食糧難のときは、麦飯のめはりずしさえ食べられず、
紀州茶がゆを弁当にもって出かけたそうである。すさみ町佐本の宮口恒一さんによると、

 茶がゆは腹がふくれるが、すぐに腹が減って弱ったにぃ。しかし、水分がたっぷりと
れるんで山仕事には便利やったにぃ。当時は、固い麦飯を腹いっぱい詰め込むのが、わ
しらの夢やったにぃ。めはりずしなんぞ、ごっとう(御馳走)で盆正月しか食べられな
んだからにぃ。

ということだから、めはりずしも常食から御馳走に昇格したのである。今は、新宮駅で
駅弁として売られているが、白米を酢飯で混ぜ、浅漬けの高菜で包んでいる。観光客用
で、熊野山民の常食とはほど遠くなって、「ごっとう」である。



・「山稼ぎ振動病」


 木漏れ日の 森で憩いの ひと時を うたをつくれり 山人のわれ

 すさみ町佐本で山稼ぎを生業にしている宮口恒一さんの短歌である。私が佐本中学校
で教師をしていた頃、いろいろ教えていただいた人生の師である。宮口さんが語るとこ
ろによれば、旧制中学校に進学したかったが、山稼ぎに教育はいらんという、家族の反
対で断念した。しかし、向学心のやみがたい宮口さんは、短歌の道に専心する。近藤 
芳美氏の主宰する雑誌に投稿を続けた。しばしば、短歌が採用されるようになった宮口
さんは、同人と手紙のやりとりをしていたが、何かしっくりこなくなり悶々としていた
らしい。うっぷんの聞き役にわたしが、指名されたのである。ビールを飲みながら、か
れの文学論に耳を傾けていた私は、傾聴に値する卓論をしばしば聞いた。山稼ぎの爺の
いうことだから、との枕詞のついた政治・社会論は、山村の知識人と呼ぶにふさわしか
った。山村の住民は、とかく文化が遅れているとの偏見があるが、誤りである。都会よ
り、知識人の割合が多い。宇江 敏勝氏などは、熊野をテーマとした作品を発表してい
るが、都会育ちの作家より味わい深い作品を創作している。創作力は、居住地では決ま
らないのである。
 山稼ぎであるが、どんな仕事をしているのかといえば、木材伐採、植え込み、下草刈
り、枝うち、谷出しをいう。炭焼きは山稼ぎとは、呼ばない。木材搬出、川下しの労働
者をヒヨウと呼ぶ。丸太切りをする人々は、ヒトカワと呼ぶ。山林の所有者はヤマヌシ、
立ち木の伐採業者はショウヌシ、川口の材木商はトイヤと呼ばれている。
 ヒトカワは組みをつくり、ショウヌシやヤマヌシと一山いくらで契約する。これを請
けというが、日当制より能率が良いため、1970年代には、ほとんどが請けしごとに
変わっていた。ヒトカワの仕事の工程は、伐採、皮剥ぎ、ソマ、木挽き、キウマヒキと
5種類あるが、俗にキリダシと呼ぶように危険なのは、伐採とキウマヒキだった。伐採
は倒木が跳ね返ってくる方向が予測できないとき、けがをする。キウマは木製の台木に
材木を5〜6石(1.4〜1.7立方メートル)を積み、枕木の上を引いて運ぶ。けが
が多く、危険なため、キウマができれば一人前といわれた。
 宮口さんはキウマができずに、賃金で差別されたらしい。それもかれのうっぷんの一
因だった。その代り、斧の代わりに普及しだした動力鋸に積極的に取り組んだ。これの
普及が振動病患者を輩出させたのである。なにしろ、斧や大鋸の20倍以上の能率の良
さが評価され、競って動力鋸が使用された。しかし、その代償が振動病による失業だっ
たのである。宮口さんも失業し、振動病患者への補償金で生活するようになった。過酷
な労働の結果、振動病になったのであるから、当然の権利である。
 しかし、低収入の山村の住民たちはそうは受け取らず、「遊んでいて暮らせるなんて、
結構やのら。」と、嫌味をいう始末である。山林労働者の請願の結果できた制度である
が、受給者には居心地が良くなかったようだ。学歴や仕事上のうっぷんが、かれを創作
に駆り立てたが、「うたをつくるより田をつくれ」という山村の風潮のなかでは、理解
されなかった。山人の生活に取材したかれの作品が、正当に評価されることを望んでい
る。宮口さんだけでなく、才能を正当に評価されずに、不本意な人生を過ごした山人が
多かったという思いを持っている。



・「山蜜とゴウラ」


 1972年佐本中学校で、1年生を担任したわたしは家庭訪問で教え子の家を回って
いた。西野川のI君の家を訪問すると、庭先に中が空洞になっている古い幹が、数個置
かれていた。以前、授業中母親から電話があり、「橋が流されるから、子供を帰宅させ
てほしい。」という要請であった。橋が流されるほどの大雨ではないがと訝しかったが、
校長の指示でわたしが送って行った。西野川を遡って源流近くに、I君の家があった。
橋といっても丸太を二本、針金で括った丸木橋であった。少し増水すれば、流れるよう
になっていた。母親にI君を託して帰ってきたが、不便な生活ぶりに驚いた。これは何
ですか?と母親に尋ねると、「ゴウラ」といって、蜂の巣になる容れ物で、山蜜を採る
のだという。山のあちこちに置くと、蜂が分蜂して巣をつくる。大木の根元や崖の上な
どが良い場所らしい。山蜜は椎の花や山つつじの花などから主に採取され、上品な味の
高級品である。戦前では、東京の三越デパートで高級食材として販売された。戦後はレ
ンゲを主体とした西洋蜂の蜜に押されて一般的ではなくなったが、古座川流域の物産セ
ンターで1瓶(1.8リットル入り)で約2万円で販売されている。
 「ゴウラ」をつくれば、日本蜂が入るかといえば、さにあらず。なかなか、難しいそ
うで、匂いのきつい木はだめなのである。蓋は杉でするが、人間の家と同様、蜂にも好
みがあり、安全で安心できる家でないと入らない。出入り口が大きいと、スズメバチや
西洋蜂が侵入して乗っ取られるので、日本蜂が入れる大きさの入口の「ゴウラ」しか住
みつかないのである。わたしが山蜜にであったのは、1960年代であった。父の友人
の潮崎さんが、古座川の親類が山蜜をやっているので買わんかい、と紹介してくれたの
である。2瓶注文すると、広口瓶2個をもってきてくれた。驚いたことに、瓶に中に蜂
の巣が入っていたのである。きたないなぁというのが、初印象だった。だが、トースト
につけて食べると、さわやかな芳香とあっさりした味で、とてもうまかった。潮崎さん
が亡くなるまで、山蜜購入が続いたが、死後は山密と疎遠になった。
 最近、熊野古道を歩くと、よく「ゴウラ」に出会う。「ゴウラ」は自分の所有地以外
でも勝手に置けるようだ。好きな人は3、40個もつくって置くそうで、蜂が入居すれ
ば結構な収入になるそうだ。山蜜がグルメブームのなかで見直され、「熊野蜜」のブラ
ンド品になっているらしい。熊野の森のめぐみが復活するのは、大賛成である。余談で
あるが、「ゴウラ」による採蜜方法は珍しく、中国東北地方(旧満州)や宮崎県米良地
方にみられるのみである。文化人類学者の中沢 新一氏は、神話を分析して熊をトーテ
ムとする部族が熊野地方に在住したことを指摘している。旧満州の狩猟民族が、熊野地
方に渡来したのだろうか。それとも、偶然の一致なのだろうか。今後の解明が待たれる
課題である。



・「板屋鉱山盛衰史」


 それ天下の富を持つものは朕なり。天下の勢いを持つものも朕なり。この富と勢いを
もって尊像をつくる。


狂信的な仏教徒である聖武天皇が大仏造営にあたって発した詔である。国家事業として
実施された大仏造営プロジェクトは、資材の調達に苦しんだ。三重県熊野市紀和町板屋
の銅山も詔勅に呼応して、大量の銅を供出した。743年(天平15年)の詔勅に呼応で
きたのであるから、当時から活発な採鉱がなされていたのである。せっかくの大事業で
あったが、効果は見られず、政治的混乱、疫病の流行、凶作は相変わらず続き、狂信的
仏教徒の聖武天皇も天を仰ぐ結果となった。無駄な公共事業の原型が早くもみられ、板
の銅も民衆の幸福には寄与しえなかった。
 熊野酸性岩が分布しているこの地方には、板屋のほかにも楊枝、小船、大河内、小森、
大谷などの鉱山が点在している。特に、大谷鉱山は南朝の年号である延元2年(1337
年)と坑道に刻まれた文字が発見されて有名になった。ここが南朝方の拠点のひとつだっ
たことが明らかにされたのである。建武の新政の主役であった後醍醐天皇は、日本史上
例をみない破格の人物であった。理念型の政治家で、改革的情熱もあり、実行力もある
が、それが日本史上最長の動乱を導き出したのは、歴史の皮肉である。60年間に渡っ
て政争が継続し、全国的に戦乱が広がった責任の第一は後醍醐天皇にある。
 「異形の帝王」と呼ばれた後醍醐天皇は、貨幣鋳造に取り組んだ。経済的理由という
よりも、呪術的理由からである。貨幣に利便性を求めるより、貨幣を発行することで超
能力を得られると考えた天皇は、大規模な金、銀、銅の採掘を命じた。その命を奉じて
各地の鉱山開発に邁進したのが、山師たちである。熊野地方は、山師たちが活発に活動
し、上記の鉱山を開いた。
余談だが、湯の口温泉などは、その開発中に発見されたから、古い歴史をもつ温泉であ
る。
 しかし、建武の新政がわずか2年で崩壊すると貨幣発行は夢となり、この地方は南朝
方の活動資金と武器調達の拠点となった。豊富な砂鉄を利用して、入鹿鍛冶が武器を製
造した。現在でも、板屋鉱山資料館に入鹿鍛冶製造の刀剣類が展示されているが、その
技術は優れており、古刀の品格を保っている。1392年、南北朝合一がなり、御亀山
天皇は後小松天皇に神器を譲ったが、両朝交代の皇位継承の約束は守られなかった。憤
慨した御亀山上皇は、再び吉野に後南朝をたてるも、「南風競わず」といった有様で、
南朝の旗のもとに参じる武士は少数であった。御亀山上皇の皇胤たちは、吉野・熊野の
山に潜伏し、南朝再興をめざした。1455年、北山宮自天王と河野宮忠義王は、大河
内の行宮で倒幕の令旨を発した。次の令旨は那智の色川氏に与えられたものである。


 色河郷すなわち先皇由緒の地なり、その竜孫の鳳輦すでに大河内の行宮に幸するなり、
錦幡のもとに早参致すべし、軍功しかるべきものは恩賞あるものなり、天気の趣かくの
ごとし


  乙亥 八月六日


          色河郷惣中


 しかし、色河郷が応じた気配はなく、悲願達成はならなかった。かえって、幕府を刺
激したらしく、赤松家再興を願う一党に襲撃を受け、1457年12月、大河内の行宮
で二人も凶刃に倒れた。その結果、組織的な後南朝の再興運動は終焉した。
 板屋銅山が隆盛を迎えたのは江戸時代に入ってからである。紀州藩は鉱山開発に力を
入れ、鉱夫を集めた。板屋でも全国から山師を集めたが、犯罪者でも罪を帳消しにした
ため、募集に応じるものが多かった。鉱夫たちは各組に分けられ、親方の下で契約を結
んだ。乱暴者揃いで統制に手を焼いた藩は博打を奨励し、鉱夫を借金漬けにした逃亡を
防いだのである。親方の一人に玉置 九郎兵衛がいた。九郎兵衛は親方兼博徒であった
が、もめごとの仲裁に尽力し、人望を集めた。しかし、妻女刺殺事件をおこし、169
9年(元禄12年)に入定した。生きたまま室に籠り、7日目に死亡した。生前の罪悪滅
消を願ってのことであろうが、どんな罪悪を犯したのだろうか。良心の呵責に堪えなか
ったのであるから、裏では幾多の殺人に関わったのであろう。密殺され山に埋められた
鉱夫たちの亡霊に悩まされたのであろうか。
 板屋銅山が生産量を高めて、紀州藩のドル箱になったのは、「熊野床」と呼ばれる新
しい精錬法を開発したからである。銅の採掘が進めば、銅鉱石の産銅量は低下してくる
が、精錬技術を高めれば銅生産は増加する。紀州藩のとった方法は、精錬用の焼き窯の
送風技術を改良したのである。窯の底に紀和竹という節の間隔が90cmの竹を使った
送風管を取り付け、送風量を高めて焼成温度をあげた。それで銅鉱石の精錬度をあげた
のである。その結果、楊枝川流域の水車谷銅山、日足の銅山、那智の金山銅山など各地
で生産量が増加した。
 昭和に入って、日本軍が中国大陸で15年戦争を始めると板屋の銅山も増産に次ぐ増
産で戦争景気に沸いた。砲弾や銃弾の薬莢に銅が使われたため、需要が急増した。政商
石原 広一郎率いる石原産業が板屋銅山を経営した。そのため、板屋には人口が流入し、
山中に町ができた。しかし、若い鉱夫が入隊すると、人手不足が生じた。そこで、19
44年(昭和19年)6月18日、マレーで捕虜になったイギリス兵300人を坑内作
業に動員したのである。板屋より1km離れた所山に2階建の捕虜収容所を建設し、日
本軍の監視下に置いた。「戦場にかける橋」の熊野版であるが、かれらは自らイルカボ
ーイズと名乗り、能率的な仕事ぶりと紳士的な収容所生活で日本側の虐待を免れた。足
尾銅山の中国人・朝鮮人労働者が2000人近い犠牲者をだしたのに対して、16人の
病死者が出ただけだった。それゆえか、石原はA級戦犯として逮捕され巣鴨プリズンに
拘置されたが、捕虜虐待の罪に問われず釈放されている。1994年、イギリス人捕虜
が来日し、慰霊祭がおこなわれたが、友好的雰囲気のなかで挙行されたのは幸いであっ
た。所山の外人墓地には十字架の墓標が建てられ、その墓誌銘に英文で以下の文字が刻
まれている。


 神のより偉大なる栄光のもとに、1941年〜1945年の戦争中、ここ板屋あるい
はその付近にて逝去せる英国軍兵士を記念して




・「木地屋と木地車」


 わたしが初めて木地屋を知ったのは、1980年、熊本の民芸店であった。木地車と
いう民芸品を買ったのである。値段が5000円もしてもったいなかったが、粗削りな
木地に極彩色の雉を着色した不思議な玩具に惹かれたからである。主人に講釈を頼むと、
木地屋というお椀やお盆の木製品を製造する山民の玩具で山から山を漂泊し、里に下り
てくるのは漆器屋に木製品を卸しに来るときだそうだ。九州山地に少数いるが、現在は
里で定住している木地屋がほとんどである、ということであった。木地車は、木地屋の
子供たちの玩具として、つくられたのである。柳田 国男は「木地屋物語」で、木地屋
を以下のごとく紹介している。


 木地屋の根源は滋賀県愛知郡東小椋村大字君ヶ畑である。昔はこの伊勢境の山谷に三
百戸の轆轤師が住んでいて挽物をもって生計を立てていた。(中略) 古い免許状があっ
て、諸国の山林に心の儘に立ち入り、木を切ることができるので、追々に国外にでて帰
らぬものが多くなった。


 木地屋は貴種流浪伝説をもっていて、清和天皇の兄惟喬親王を祭神とする大公大明神
を祀っている。惟喬親王は母親が藤原氏でなかったため帝位につけず、京都の小野の里
(大原)に隠遁したが、いつのまにか木地屋の先祖にされてしまった。京都の雲ヶ畑の山
中に惟喬神社があるが、祭神は親王である。かれは隠遁して、和歌と風流の道を究めよ
うとした。隠者の先駆者であった親王が、どうして木地屋の先祖にされてしまったのだ
ろうか。それは漂泊してきた木地屋が、雲ヶ畑で惟喬親王の伝承を聞いて同情し、自ら
の境遇と重ね合わした結果であろう。風流人であった親王にとって思いもよらぬことで
あろうが、木地屋にとっては誇りと特権を手にいれたので利益は大きかった。
 木地屋は全員小椋姓を名乗るが、親王の隋臣小倉の大臣を先祖とする伝承をもってい
るからである。シンガーソングライターの小椋 佳やバドミントンの小椋 久美子は小
椋姓であるが、多分、先祖は木地屋とのかかわりがあるのであろう。とにかく、八合め
以上の山の樹木は断りなしに切ってよいとの特許状を携えて、各地の山を移動していっ
た木地屋たちは、四国、九州、中国、木曾、吉野、伊豆、飛騨,会津などに根拠地を置
いた。轆轤で木地をつくって漆器を製造したのは意外と古く、平安時代の「倭名抄」に
轆轤俗に回転木機なりとあり、「空穂物語」に轆轤師とあることから、平安時代には存
在していたことになる。かれらの存在は滋賀県日野の木器市で製品を売買したり、和歌
山県根来塗、海南の黒江塗、会津塗など漆器の産地と取引があったことで知られている。
しかし、木曾の山中に多く居住した木地屋たちは、桧を用いて曲げ物や折り敷などの木
工品も製作した。中国山地には、「木地屋」「木地山」という地名があり、四国剣山地
には木屋平があるが、木地屋が定着し始めてからつけられた地名である。
 熊野地方の木地屋であるが、南北朝のころは活発であった。とくに、吉野朝のお膝元
であった奈良県川上村は、木地屋の有力な根拠地であった。吉野朝は山中を自在に移動
する木地屋を情報収集に使い、効果をあげた。もちろん、惟喬親王伝説を利用して、朝
廷への忠節を尽くすように説得したのであろう。後南朝時代に、大河内に行宮を設けた
北山宮や河野宮は木地屋集団に保護されていた。かれらの身辺を警護し、情報を集め、
四方に使いをしたのは木地屋であった。南朝方の武士は利によって、味方をしたり裏切
ったりしたが、木地屋は裏切らなかった。先祖を共有するといったイデオロギーのほう
が、利害に勝ったのである。古座川流域も後南朝伝説が残っている地域であるが、古座
川奥には16弁の菊花紋を刻んだ墓があったという噂が流れたことがある。後南朝の皇
孫の墓であろうか。その墓を探しに古座川源流のひとつである幻の滝付近を歩きまわっ
たが、見つからなかった。それと木地屋との関連は不明であるが、後南朝伝説と木地屋
とがかかわりが深いことは了承していただけるのではないか。後南朝の皇胤たちは、熊
野の山中の露と消えたが、その足跡は木地屋たちによって語り継がれていったのである。
 木地屋たちのその後であるが、伊勢の国多気郡の山間地に小椋姓が多いのは、近江の
国からの移住者らしい。安芸の宮島は杓子で有名であるが、厳島神社と契約した木地屋
が門前に住み着き、製作したものである。木地屋も山中の不便な生活よりは都市の便利
な生活の方が快適なのであろう。誇り高き漂泊集団も、戦後に住民登録令などが発布さ
れたため、定着を余儀なくされ、現在に至っている。プラスチック容器が全盛である現
代社会では、木地屋の居場所も無くなっている。寂しいが、時代の歯車はまわるのであ
る。木地屋も消えていく存在なのである。


・「山伏と鈴木系修験道」


 柳田 国男は「毛坊主考」で有髪の宗教者を考察しているが、その筆頭が山伏である。
山伏が有名なのは、民話の天狗のモデルであるからだが、立派な人物というより愛嬌の
ある胡散臭い人物として描かれている。しかし、わたしが接した山伏は厳しい修行者で
あり、敬虔な宗教者であった。以下、山伏や修験道を真実の姿を紹介し、誤解を解きた
い。
 2008年8月20日付けの読売新聞文化欄に以下の記事が載っていた。


 高木 晃氏は、21世紀でも「賞味期限が十分残っている宗教の要件」として、次の
5点をあげている。
 ・自然とかかわっている
 ・参加型の修行をする
 ・実践的な宗教である
 ・心と体にかかわった修行をする
 ・統括的総合的な教義をもつ
この五つだが修験道は、その全ての条件をみたしている。


実は、わたしも高木氏の意見に同感なのである。教条主義的、原理主義的な宗教やイデ
オロギーが、世界中を混乱に導いている。破壊や殺戮や偽善をもたらし、救済どころか
絶望を与えているのである。
 そもそも修験道は、奈良時代に役 小角によって開宗した。小角は山岳宗教に仏教、
神道、道教、陰陽道などを習合させ、総合的な民俗宗教を創始したのである。かれは山
林に入り、神仏を分け隔てず、山に伏し野に伏して修行し、ついに金剛蔵王権現の威力
を体得する。その力は験(悪霊を封じる力)を修めることだったので、修験道と呼ばれ
た。
 熊野信仰の中核には、この修験道がある。本宮に長床衆、新宮に神倉衆、那智に滝籠
衆がいて熊野の別当が統括していたが、承久の乱で勢力を失うと天台宗や真言宗の支配
下にはいる。本山派は天台宗聖護院、当山派は真言宗醍醐寺三宝院が統括するようにな
った。江戸時代に入ると、熊野信仰を各地に広める尖兵として活躍するが、詳細は後述
する。
 1868年、明治元年に明治政府がだした神仏分離令は、修験道を木端微塵に破壊し
た。山伏や熊野比丘尼を、宗教者として認めなかった。衆を惑わす詐欺師扱いされたの
である。それゆえ、かれらは還俗して別の職業に就かざるを得なかった。修験道が、民
衆レベルで再活動するのは大正初めまで待たねばならなかった。神仏分離令が、修験道
を邪宗視する一因になり、近づかない方が良い宗教という印象を、世間に与えてしまっ
たは残念至極である。
 2004年(平成16年)、紀伊山地の宗教施設や参詣道が世界遺産に認定された。い
ちばん喜んだのは吉野・熊野の修験道関係者である。文化的宗教的価値が国際的に認定
されたからである。吉野山蔵王堂では、秘仏である金剛蔵王権現を公開した。高さ8m
になろうかという木像仏は、極彩色の絵の具の効果もあり、悪霊を封じ込める迫力に満
ちていた。権威ある機関に認知された喜びが吉野の山に満ちており、押し寄せた桜の花
見客のざわめきと相乗効果をあげて華やいでいた。
 さて、山伏の活動であるが、江戸時代が活発であった。とくに、熊野山伏は東北地方
に布教に出かけた。国立歴史民俗博物館の小池 淳一氏は、「熊野信仰の東北への伝播」
という講演で、鈴木系修験の東北地方での活動を教示している。熊野信仰は別当湛増の
流れと鈴木 三郎重家の流れとがあり、東北布教で活躍したのは、鈴木系の修験者であ
った。東北での熊野神社は、熊を祀る神社である。なぜ熊が祀られるかといえば、熊が
冬眠するからである。冬眠から目覚めて活動する姿が、「擬死再生」の信仰と結びつい
たのである。このような信仰があるところに陰陽道を取り入れた熊野修験が布教された
のであるから、民衆の支持を得て定着するという結果になった。よそ者から地の人にな
ったのである。その例として、「新編会津風土記巻62」上田村の項目に次の記載があ
る。


 鈴木 善兵衛
 この村の肝煎りにて紀伊の国藤代の鈴木 三郎重家の末裔なり。(中略) 重家が子、
父の行方を尋ねんため、修験に身を替え常光坊と称し、本国に下りしに、父が討ち死に
を聞き、この村にとどまり、熊野宮を勧請し、代々修験を相続す.しかるに、重家より
八代の孫大寿院が子少納言というもの、鈴木 善左衛門と称してこの村の肝煎となり、
子孫相続して今に至るという、藤代の鈴木 三郎という者の家へ、今に書簡往復して同
姓の好をなす、


 以上の史料から以下のことが読み取れる。


  ・海南市藤代神社の神官鈴木氏の末裔を名乗っている。東北に多い判官びいきを踏ま
  えたもので、義経の従者の重家を先祖とすると布教しやすいと計算したものと考え
  られる。
 ・熊野神社を勧請し、修験者として代々活動している。
 ・村の指導者として村政にかかわっている。
 ・藤代の鈴木氏と今も交流している。


 これから類推すれば、熊野講を組んで東北から熊野参詣に信者を動員したのは、かれ
らだったといえよう。よそ者の修験者が、土地の支配層になったのであるから、並の苦
労ではなかったろうが、鈴木系修験の活動の裏には宗教活動とともに金融業を行ってい
たことが垣間見えるのである。


・「大峰山入峰体験記」


 私は2008年3月31日に、38年間の教職生活を終え退職した。退職前から、大
阪府熊取町の大峰講の講頭の坂上氏から「大峰に登ってみんかい」と誘われていたが、
退職してからと断っていた。退職後の生活を始めるきっかけに大峰山入峰を考えていた
からである。わたしは修験道には関心をもっていたが、自然を道場にして心と体を鍛え、
排他的でないことを評価したからである。とにかく、現世利益的な宗教や寄付を強要す
る宗教は肌にあわない。「癒し」と「甦り」をテーマにした後半生を送りたい自分にぴ
ったり合っているのが、修験道である。
 5月13日に坂上氏の主宰する「泉熊講」に新客として申し込んだ。泉熊講は坂上氏
の祖父である坂上 林蔵氏が大正年間に再結成したものである。大峰講は江戸時代に盛
んに実施された。宗教的な意義もあるが、農閑期のリクリェーションを兼ねていたので、
地域の有力農民が主体だった。しかし、1686年の廃仏棄釈による弾圧のため、講活
動は停止してしまった。ほとぼりが冷めた大正年間に、篤信者によって再開された。以
前の講のメンバーは、血縁、地縁による地元民が中心であったが、最近は新住民も加わ
って開かれた講になっている。
 6月1日6時30分、熊取を出発し、奈良県天川村洞川に向かった。10時に奥村旅
館に到着し、マイクロバスで登山口に臨む。私たちの装束は普段着である。普通、山伏
といえば、頭に宝冠、鈴懸けをまとい、結袈裟を結び、笈をせおい、手に法螺貝と錫杖
をもつ姿を連想するが、私たちは山伏装束は着けないのである。私の服装は白のキャッ
プにジーンズの上下、地下足袋にルックザックを背負うといったものであった。
 女人禁制の大門を通過したのが、10時30分。同じ新客のNさんとのぼり始める。
Nさんは77歳で那智勝浦町の出身である。旧制新宮中学校の卒業生で大阪で事業を興
し、退職後はゴルフ三昧の生活を楽しんでいる元気な老人である。Nさんと話しながら、
苦しい登りを1時間歩くと、役 行者のお助け水に出会った。まったく、お救い水で谷
水が湧いており、飲むとうまかった。「甘露じゃのう。」と冗談をいいながら飲むと、
力が漲ってきた。さあ、出発。1時間後、洞辻茶屋に到着した。ここは、吉野道との合
流点で「陀羅尼助」を売る売店が並んでいる。ここを抜けるといよいよ行場であるが、
私の足の筋肉はパンパンに張って、歩くのが億劫になる。根が尽きたようになるが、こ
こからが恐怖の行が始まるのである。
 まず、「あぶらこぼし」という一枚岩によじ登るのである。上から鎖が下がっていて、
それを伝って登るのが一苦労である。右手に杖を握っているので左手一本で上るが、バ
ランスがとれないから撚れながら登る。やっと登り切ると、ほっと溜息がでる。しかし、
まだ小手試しなのである。恐怖の行は、次々に用意されている。
 「新客は集まってください。」という声に誘われて行くと「鐘掛け岩」が見えてきた。
20m余りの垂直の岩である。空中に張り出しているので、墜落する危険がある。鎖を
握りしめてよじ登るのである。同じ新客のNさんは、パスしてしまったが、わたしは4
人の新客と一緒に挑戦した。岩の窪みに足をかけながら、鎖を握りしめ頂上に登った時、
死への恐怖感と生への喜びが交錯する複雑な感情が湧いてきた。頂上に役 行者の石像
があり「鐘掛けと問うて尋ねてきてみれば、九穴の蔵王下にこそ見る」と唱えるのであ
る。もうやめようかしらという気持ちになるが、勇気を奮って次の行に挑戦する。
 次は「お亀石」という霊石を拝むのである。この石は熊野まで続いているとされ、こ
れを拝むと万年の長寿を得るのである。「お亀石、踏むなたたくな杖つくな、よけて通
れよ、旅の新客」と唱えながら進むと、西の覗きがみえてくる。これは大峰入峰の最大
の修行で、高さ100mの絶壁に逆さづりになる修行である。下に不動明王が祀られて
おり、それを覗くので名前の由来ができたそうだ。
 わたしは眼鏡、腕時計をはずし、両腕に縄をつけ,合掌して逆さにつるされる。先達
が「親に孝行するか、嘘をいわないか、妻を大事にするか」と問いかけるが、恐怖でパ
ニック状態になったわたしは、「する、する」と絶叫していた。「擬死再生」を実行し
たのである。過去の自分の人生とさよならして、新しい人生を歩む決意をしたのである。
覗き行が終わり、山上の不動明王の石像の前で、「ありがたや、西の覗きに懺悔して、
弥陀の浄土に入るぞうれしき」と、新客全員で唱和した。これで表行場の行は終わった。
裏行場は、次回に挑戦することにした。
 あとは大峰山寺にお参りして、金剛蔵王権現が出現した涌出岩、お花畑、日本岩をめ
ぐって帰路に就く。14時30分、出発してから4時間の行程であった。これで山上ヶ
岳登山は終わった。ここから、南へ駆け道が続いている。遥かなる旅路だ。熊野までの
道のりを考えると、すさまじい修行である。いつかは挑戦したいが、いつになるやら、
未定である。
 帰りはひどかった。腰や太ももが張ってしまって感覚がなくなっている。杖を頼りに
下るが、足に力が入らない。途中、入峰の講中に出会う。「よう、お参り。」と声掛け
する。「六根清浄、懺悔、懺悔。」の掛け念仏を省略する。必死で下り、17時30分、
登山口の清浄大橋に辿りついた。口を開くのも億劫であった。売店でソフトクリームを
買ってほうばると、とてもうまかった。入峰の功徳であるが、79kgあった体重が、
76.5kgに落ちていた。ダイエット効果があったことだけは、保証できる。
 往復7時間の入峰であったが、過去との訣別ができた心境になれたことが成果であっ
た。奥村旅館で、夕食にかしわの水炊きで懇親会をもったが、愉快至極でまた参加した
いと思った。心と体を鍛え、諸仏を平等に遥拝する修験道こそ、21世紀を象徴する民
俗宗教であることを強調して稿を閉じたい。


 鐘掛けと西の覗きと続く行(ぎょう) 弥陀の浄土に入るぞうれしき