・「河原のもの」


 38年間の教師生活のなかで、「河原のもの」への関心を持ち続けたが、いつも頭の
中にあったのは、河原に住む=非農業=賎民視=差別といった公式に対する疑問であっ
た。1970年代に部落解放運動が取り組まれる中で、「部落民は主要なる生産過程か
ら疎外された」という理論が提起された。「主要なる生産過程」とは、農業のことであ
る。つまり、農業が禁止されたから他の職業に就かざるを得ず、差別を被ったといいた
かったのである。たしかに、河原に定住した人々は農業ができなかったが、農業してい
た賎民が差別を受けなかったわけではないし、賎民すべてが農業や漁業を禁止されてい
たわけではない。年貢を納めなかったことが差別の原因ではなく、河原の持つ特殊な役
割がそこに住む人々を差別の被害者にしたのである。
 網野 善彦氏は「河原から町へ」で河原の機能を以下の五点にまとめている。


  ・水上交通の要衝で、商取引、運輸が活発におこなわれた市場であった
 ・墓場および処刑場であった
 ・川魚の漁場であった
 ・動物の解体場であった
 ・合戦場であった


 この五つの機能が、河原の住民を賎民視する傾向を助長した。
 ひとつめの交通の要衝・市場の機能であるが、鉄道開通以前は船が物資輸送の主力で
あった。船の着く場所が、河原・中州・浜であれば、当然、そこには荷役、運輸、商人
が住み着き、市場が開かれる。市場が開かれると、物と物、物と銭の交換や売買が行わ
れ、人の交流が活発になる。河原は無主地であったため、そこに集まった人々は村落共
同体の身分関係から解放された「無縁」の人々だった。市場も当然ながら、徴税者のい
ない「楽市」だったのである。織田 信長の楽市政策も、それらの状況を踏まえた上で
実施されたのである。彼がトップ・ダウンで天才的発想で行ったのではない。
 それでは、河原や中州に馬借や車借以外にどんな人たちが集まったのだろうか。市場
は神に対する祭りから始まった。神を喜ばせるための芸能が上演され、多彩な芸能人が
集まったのである。音楽・舞い・曲芸を行う田楽師や猿楽師、人形を扱う傀儡子、舞い
を舞い、歌を唄い、売春を業とした遊女や白拍子などが集まった。淀や江口などの中州
には、白拍子の船が舳先を競い、遊客を誘った。他にも、巫女や山伏、陰陽師、聖、勧
進上人など宗教や占い、勧進に従事する人々が集まった。勧進に応じることは、仏への
供養と考えられたのである。次いで、商人や職人が各地の産物や手工業品を売り出した。
農具や鍋、釜、衣類、酒、陶器など農民が自給できなかった商品が集まった。一遍上人
聖絵に備後の国福岡の市の様子が描かれているが、多様な商品の交換がなされている。
こうして、河原には「百姓」の身分の人々が集ったが、固定的な建築による町屋ができ
ていたとは言い難く、店も組み立て式の簡易住宅であった。出水があると、解体して逃
げれるようになっていた。しかし、河原には衣食住の商品が集積し、売買され、経済活
動が活発に行われていたのである。
 ふたつめは墓場・処刑場の機能である。古墳が豪族や大王の墓であることは周知の事
実であるが、奴隷や農民の墓がほとんど見つからないのはなぜだろうか。一般民衆が墓
をつくりだしたのは、江戸時代に入ってからである。檀家制度が確立され、お寺が戸籍
を管理するようになると、お寺に隣接して墓がつくられるようになった。それ以前の葬
送制は土葬、火葬、水葬、風葬があり、墓場は河原、中州、浜、坂、峠など集落の周囲
に設けられていた。京都に鳥辺野と呼ばれる墓場があるが、烏による風葬が行われてい
たのである。では、水葬はどのような場所でおこなわれたのであろうか。それは、河原・
中州・浜であったと考えられる。那智の穂堕落渡海などは水葬の儀式化したものだし、
上野 一夫氏の「熊野・大辺路の暮らし」によれば、串本町の田並から和深にかけての
集落に水葬を思わせる葬儀形式が残っており、潮による穢れを清めることが目的ではな
いかと指摘している。氏の見解にはわたしも同感で、野凪の念仏島で青竹に草鞋、握り
飯、笠を結わえた葬送道具が差し込まれていたのを目撃した記憶がある。ついで、河原
での水葬であるが、宮本 常一氏は「吉野西奥民俗採訪録」で、


 記憶に間違いがなければ、辻堂あたりでは死体を河原に持って出て、砂礫のなかに埋
め、上に小石をたくさんのせておいたように聞いた。


と水葬を紹介しているが、十津川流域にとどまらず、吉野川、日高川、熊野川流域にも
水葬の葬送形式が残っていたのである。これは、河原や浜、峠などが現実の世界と神仏
の世界との境界と考えられていたからである。そこは、死者の穢れが及ばない場所だと
考えられていた。この考えの延長線上に、熊野信仰がある。本宮熊野大社は、以前は熊
野川の中州に設けられていたが、神仏の世界の入り口を示すと考えられたからである。
一般民衆が、水葬や風葬を中心に葬儀をしていたのであれば、墓が残らないのが当然で
ある。
 処刑場として河原が用いられた例として、京都の三条河原があげられる。三条には検
非違使や侍所が置かれていたため、罪人の処刑は三条河原で行われた。検非違使の官人
が直接処刑したり、死体の後始末をするわけではなく、「放免」と呼ばれた釈放された
罪人が執行した。そのため「放免」は河原に居住して、河原墓地を管理した。河原墓地
は洪水が起これば、水中に没してしまい、後には白骨しか残らない。洗骨が容易にでき
るので、葬送法としては効率的だったのである。五来 重氏によれば、火葬が普及する
までは水葬が一般的であり、地域によっては拝み墓と埋め墓を分けてつくる両墓制が現
存しているのである。
 みっつめは川魚の漁場としての機能である。鮎、鰻、鯉、鮠などの川魚は、古代から
食用として重んじられた。鯉などは宮廷料理に欠かせない魚だったし、鮎を用いた鮎酢
しは慣れ酢しとして貴族や町衆に愛好された。しかし、川魚は動作が俊速で、鵜を用い
た漁法が弥生時代より用いられた。鵜飼い漁は、中国の江南地方の漁民が用いた漁法で
あるが、弥生時代には日本列島でも盛んであった。川魚に対する需要が高まったためで
ある。この鵜を用いた川魚漁師たちが、鵜飼部として朝廷の部の民と位置づけられた。
平安時代には、供御人・神人と呼ばれて、神聖視された。朝廷や神社に初尾を備えたの
である。このような人々は、朝廷や神社が勢力を保っている間は神聖かつ特権視された
が、勢力が衰えると賎民視されるようになった。たとえば、桂川の鵜飼い集団は「桂供
御人」と呼ばれて特別視されていたが、「桂女」として川魚を販売しだすと神聖さを失
い、商人として扱われていったのである。室町時代には、「勝浦女」として、貴族、大
名、僧侶などの宴席に侍る遊女の存在となった。聖なるものから賎なるものへと身分の
転換が起こった。
 よっつめは動物の解体場の機能である。中世では牛馬が重視され、死ぬと穢れが発生
すると考えられた。穢れた牛馬を扱えるのは、穢れを清められるひとたちである非人・
河原者たちだった。かれらは穢れを清めるために塩の販売や河原の砂を用いた作庭に従
事した。塩の販売に従事したひとたちは「神人」、作庭に従事したひとたちは「山水河
原者」と呼ばれた。どちらも清めの働きを神聖視されていたが、室町時代には賎民とし
て扱われるようになった。天龍寺や銀閣の作庭を企画した善阿弥などは山水河原者の代
表的人物であるが、賎民として差別の対象となったのである。
 死牛馬の解体に従事した河原者たちは、その内臓を牛黄として高価に販売した。薬や
加持祈祷に用いられたのであるが、金と同量の価値があったとされる。また、皮は草履
や袋の革製品、肉は干物として売られ、河原は内臓、皮革、食料の製造工場の役割を果
たした。牛馬が「四足」として賎視されるのは室町時代からであり、それ以前は肉食も
常態化しており、河原者に対する差別はなかったのである。
 いつつめは合戦場であった。中世の合戦は城の取り合いよりも、広場や草原、河原で
行うことが多かった。足利 尊氏と後醍醐天皇との決戦は京都の河原で行われたし、木
曾 義仲が後白河上皇を御所に攻めたとき、上皇方の防衛勢力には印地、向い礫という
河原者がいた。かれらは石つぶてを武器として検非違使の戦力として活躍した。もちろ
ん、実力的には正規の武士より劣ったが、差別されずに警備を担当する勢力として位置
づけられた。
 以上のように河原に住んだ人々は非農業的な職業に従事したが、朝廷や寺社の勢力が
盛んな間は差別は受けなかった。彼らが差別の対象となるのは、南北朝の争乱で朝廷・
寺社の勢力が衰え河原者が町・村落共同体から疎外され、社会外の社会を形成しはじめ
た頃と一致する。河原から町や村に移住しても、共同体の一員として受けいられなかっ
た。各地に残る河原町は、そのような人々の居住区として形成されたのである。



・「団平(だんべ)船とプロペラ船」


 熊野川と古座川とは熊野地方の河川交通の二大動脈であった。昭和の初めに県道が整
備されるまでは、物資輸送の主力は川船だった。古座川では「真砂船」、熊野川では「
団平船」と呼ばれる川船が活躍していたのである。
 熊野川の川船は長さ11.5m、幅1.5mの和船で、9mの帆柱を持ち、3反の帆
を掛けて川を遡るが、急流に来ると棹師以外の水夫は綱を肩に掛け、船を曳くのである。
河原、川岸、岸壁を這いながら曳く作業は重労働で、曳き子は50歳以上は生きられな
いといわれた。ことに真冬は寒風吹きすさぶ中を水中に入って作業するため曳き子の負
担はすさまじく、寒さのため身体が震え、咆哮しながら曳いたという。川船の奇声とし
て熊野川特有の光景を繰り広げた。このような重労働の代価は高く、明治末年で船頭は
月30円の高給であった。
 川船の荷物は上りは米、魚、日用雑貨、下りは石炭、板、椎茸、繭が中心で、客も乗
せた。大正6年(1917年)に佐藤 良雄氏は河原町に宿泊し、川船で三里村に行った
体験を「熊野誌第40号」に寄稿されている。(「熊野九十五年見聞記」P.13)


 泊まった翌日、母と姉は、急ぐからと、暗いうちに、徒歩でたち、私は三人分の荷物
を持って八時出発の川船に乗り、数人の船子がツーツーツーと悲壮な呻き声を発して、
船を曳いて川上に上る光景を見て、川船の労働はきつい仕事だと思った。


 このような有様であったから、船足はゆっくりで新宮と本宮間は12時間、十津川の
平谷までは2日間という行程である。大正初年には定期航路が開通したようであるが、
いかにも不便極まる交通事情であり改善が急務であった。
 誰もが考えることはスクリュウー船の導入であるが、浅瀬の多い熊野川や古座川では
無理であった。ところが、大正6年アメリカ人の飛行士アート・スミスが熊野川河原で
遊覧飛行を実施したとき、動員された消防団員が飛行機のエンジン調整のため綱で引っ
張っていたところ、プロペラの推進力のため引きずられた。それを見た鳥居 丈之助は
川船の推進力としてプロペラを応用することを思いついた。片岡 晋裕氏の「プロペラ
船略史」によれば、鳥居のプロペラ船開発後の運航の歴史は以下の通りである。


 ・大正7年(1918年)新宮市の材木商小西 正一が資金提供に応じた。開発資金1
  万円を提供した。
 ・同年8月、東 平一郎が来新し、アメリカで100馬力のエンジン購入を約束した。
  東は民間飛行家として著名であった。
 ・同年12月、東牟婁郡・南牟婁郡で乗り合いバスを経営していた山上氏と阪東氏が
  プロペラ船運航計画を発表し、プロペラ船開発競争が激しくなった。
 ・大正8年(1919年)、東 平一郎が32馬力ガソリンエンジン付きスクリュー船
  を建造。プロペラ船でなく鳥居は抗議したが、やむなく入手した。鳥居はプロペラ
  を別途に購入し、32馬力エンジンを利用してプロペラ船完成に取り組んだ。天龍
  川の川船をモデルにプロペラ船の船体を完成し、船の後方に櫓を組み、エンジンを
  取り付けた。そして、梶を工夫して底にあたれば跳ねる構造にした。これは浅瀬を
  乗り切る工夫としてのポイントでスクリューと梶の両方の障害が解決されたのであ
  る。
 ・同年11月、長さ11.5m、幅1.5m、20人乗り、時速20kmのプロペラ
  船が完成し、試運転を行った。小西 正一、熊野飛行艇開業。
 ・大正9年(1920年)、プロペラ船飛鳥号新宮・本宮間に就航。36kmの定期航
  路である。初めは事故を危ぶみ乗客が伸びず苦戦したようであるが、23か月無事
  故の実績が物を言い、次第に乗客が増えていった。運賃は新宮・十津川間2円50
  銭、曳き船の1円50銭より高価であったが、速力でうわまったため需要が増えた。
  しかし、騒音と振動は甚だしく、観光客には不評であった。
 ・大正11年(1922年)3月、十津川航路開始。11月郵便物を輸送。12月10
  0馬力のプロペラ船就航。
 ・大正12年(1923年)本宮プロペラ船が就航。小西の独占事業から競争時代に突
  入した。6月、熊野川河原で両者が乱闘。10月、十津川相須氏が参入。三社体制
  になる。
 ・大正13年(1924年)4月、田中商会が参入し、熊野、本宮、十津川、田中の4
  社体制となった。その結果、競争は激化し、運賃の値引き競争が始まった。半値以
  下になったのである。このままでは共倒れというので田中商会が休業したが、12
  月大和プロペラ船が参入して再び4社になった。
 ・大正14年(1925年)、本宮プロペラは熊野飛行艇と合併。田中商会も熊野飛行
  艇に買収され、十津川、大和、熊野の3社体制になった。


 以上の経過を辿ったプロペラ船の歴史も過当競争による歪みを反映し、エンジン爆破
事件が発生した。大和プロペラのT、2号船がダイナマイトによって爆破された。被疑
者として熊野飛行艇の社員が逮捕された。しかし、事件があっても過当競争がなくなら
ないため、大正15年11月3日、和歌山県、三重県、奈良県が協議し、強制的に合併
を実施した。翌昭和2年(1927年)2月、資本金19万円、船籍数22隻の巨大会社
が出現したのである。つまり、独占企業体が官の圧力で成立したのであるが、過当競争
による利用者へのサービス還元が弱くなった。とかく乗客無視の振る舞いがめだつよう
になった。乗客が1、2人だと停船せず通過し、乗客から横暴ぶりを糾弾されるありさ
まである。乗客サービスを無視した交通が繁栄するわけがない。昭和14年(1939
年)、新宮川丈自動車によるバス運行が始まると独占事業に終止符を打つのである。
 プロペラ船事業は輸送力の拡大と船子の重労働からの解放という2大目標をもって出
発したが、市場原理のマイナス面の過当競争と独占事業のマイナス面のサービス低下を
繰り返した結果、自動車交通に駆逐されていくのである。戦後の高度成長期に田中 角
栄による国土交通再編計画が実施された。これは道路中心の再編であったが、新交通シ
ステムにマッチしないプロペラ船は旧時代の遺物化してしまったのである。昭和36年
(1961年)に熊野川の堤防から爆音をならして出発するプロペラ船をみたが、中途
半端な乗り物という感想をもった。今はウオータージェット船に様変わりして、志古・
瀞八丁間を就航している。音が静かで観光客には好評であるが、大人5000円の運賃
は高すぎる。二度目は乗りたくないなぁというのが、実感である。



・「熊野川の筏流し」


 2008年8月に北山筏流し観光協会の筏が事故を起こしたという新聞記事を見た。
十津川や北山の筏夫の技術は極めて優秀で、戦前は鴨緑江や北海道に出張してその技術
を伝授したといわれている。しかし、昭和39年(1964年)3月25日をもって熊野
川筏流しは終了した。その後、経験者を再雇用して観光筏下りを実施していたが、難所
で操作を誤ったらしい。わたしも再々申し込んだが、チャンスに恵まれず乗る機会がな
かった。
 熊野川水系の筏流しはいつ始まったのかはっきりしない。資料的に確認されるのは慶
長9年(1604年)に徳川 家康の要請によって十津川郷が北山御良料林の材木を池
原・新宮間に流したのが初めといわれている。(「新宮市史・通史編」P.732)し
かし、それ以前にも木材は運ばれていただろうから、実際はもっと遡れるはずである。
筏流しは熟練を要するため専門家が必要で、筏流しの集団が形成されていたと思われる。
 伐採木の川下げ作業に従事する人々をヒヨウといい、その組をヒトカワと呼ぶ。ヒト
カワは次の組織で構成されている。


 ・ショウヤ   ヒヨウの頭でショウヌシより委任を受け、一団を統率する。
 ・ヨコ     作業の指揮や会計・記帳を担当し、ショウヤを補佐する。
 ・ヒヨウ    川下げ作業人夫。
 ・カシキ    炊事担当。
 ・カシキノデシ カシキの下で弁当持ち。
 ・ヤトイヒヨウ 未熟練の臨時雇いの作業夫。


 以上のメンバーで山中から筏流しの可能な川岸まで運ぶのであるが、小谷の場合はセ
ギダシといって要所にセキをつくり、木材を貯めて次のセキに送ることを繰り返すので
ある。手間がかかり、途中の河原に木材を残らないようにする作業が大変だった。条件
の良いところでは、テッポウセキといってダムをつくり、いっきに切り離して鉄砲水と
ともに流下させた。効率的だが危険であり、作業中に死者が出ることもあった。
 木材を筏に組む場所をドバというが、だいたい6尺幅(1.8m)で1床を組む。1
床で木材30石〜35石を組み、通常は8床で流すから、1筏で240石〜280石の
木材を運ぶことになる。十津川水系では1筏で960石〜1300石の木材を運んだか
ら規模は十津川筏の方が大きかった。北山川にはジゴやオトノリと呼ばれる難所が多く
て大きな筏が組めなかった。
 新宮に到着した筏は成川村の農民が貯木場へ回送した。その回送賃銀は以下のように
定められていた。延宝9年(1681年)の「筏やらい賃銀の定」では、出水に応じて、


 ・北山筏1幅につき銀5分宛てとする。
 ・小水のときは、1幅につき1もんめとする。
 ・河原半分のときは、1幅につき2もんめとする。
 ・出肌が切れるとき(河原が水没する)、1幅につき3もんめとする。
 ・大水の時は、速玉権現社石段5段めに乗った時は1幅4もんめ、13段めに乗った
  時は1幅5もんめ、石段全部が水没したら8もんめとする。
 ・三里筏(十津川筏)は倍額とする。


 となっており、回送収入は成川農民にとって有力な賃仕事となったのである。筏は多
い時は、新宮河原から成川まで筏の上を渡って行けたというくらい到着した。新宮が木
材の町と呼ばれ、東京の深川で有名になったのは、実に熊野川を利用した筏流しの恩恵
による。しかし、電源開発の波は熊野川に押し寄せ、昭和35年(1960年)の二津野
ダムで十津川水系の筏流しが、昭和38年(1963年)小森川ダムで北山川水系の筏流
しが終了した。昭和39年(1964年)の湯の口発・新宮着の筏が最終となった。団平
船とともに熊野川の風物詩であった筏流しも、その役割を終えたのである。
 国道が整備され木材がトラック輸送に変わると流木の恐怖はなくなったが、日高川、
古座川、有田川など筏流しの盛んな川は、洪水時の流木が地域住民に恐怖を与えた。自
然災害が同時に人災でもあった。流木が橋や堤防を破壊し、大勢の死者や家屋を流失さ
せたことは事実である。この流木を防止する施設として網場が設けられた。明治36年
(1903年)新宮町の山本 清五郎が浅里大和田に網場を、同年鮒田川に中本 市郎平
が網場を設けた。留賃は杉・桧角尺締め1本につき24銭、丸太尺締め1本につき26
銭、黒木類30銭であったが、収入・支出が伴わず維持困難となった。それで、新宮木
材問屋組合と十津川・北山木材組合が譲り受けて運営した。
 昭和28年(1953年)7月18日に和歌山県下を襲った集中豪雨は、空前絶後の
大被害をもたらした。熊野川では鮒田の網場が切れて、三万石の流木が流れだした。こ
の流木の大群は河口の熊野川大橋に殺到して川中にダムをつくり、橋が押し流されそう
な危機に見舞われた。また海に流出した流木は、黒潮に乗って遠く八丈島に達したとい
われている。
 大雨による流木の害は流域住民に恐怖を与えた。流木が橋を落としたり、堤防を破壊
したりして洪水を引き起こしたからである。昭和20年2月21日に設立された熊野川
流材防止協会は、熊野川流材の管理運営にあたってきたが、昭和39年(1964年)
3月で役割を終えた。木材の町新宮も木材に代わる新しい地場産業を模索しているが、
いまだ創出しえていなのが現状である。熊野川が木材以外の新たな恵みを再び運んで
くれるだろうか。



・「川原町」


 広島県福山市芦田川改修工事中に発見された草戸千軒遺跡は、川原にできた町であっ
た。遺物から中国・朝鮮などの陶器、愛知県の常滑焼、瀬戸焼、岐阜県の美濃焼、岡山
県の備前焼、兵庫県の魚住焼と広範囲の産地の焼き物が出土した。また壺に入れられた
大量の銅銭が出土したのは、ここが貨幣経済が大規模に展開された市場町であったこと
を証明している。この中世に栄えた川原町は1673年の大洪水で埋没してしまった。
草戸千軒遺跡と同様に、川原の市場から発展した町として岡山県新見市、京都府淀など
が著名である。それぞれ水上交通の要衝として、運輸の中心地であった。このように、
川原から発展した町が各地にみられるが、熊野川の川原にも市場町ができていたのであ
る。
 熊野川の川原に関する古記録は「熊野年代記」にある次の記録である。


  宝亀九年(778年)戌年、新宮川原に家始めて十一軒立つ。八月大水皆流す。
平安時代以前から成川は交通の要衝であったから、川原に市場ができていたであろうと
推察される。しかし、詳細な記録は寛文9年(1669年)の「新宮川原江商売物之事」
まで待たねばならない。川原の店で販売できる商品を18種に限定し、市中の商家との
争いを調整しようとしている。制限を加えなければならないほど、川原での商売が活発
になってきたからであろう。限定された商品は次の18商品である。


・大床 ・炭 ・店屋物 ・曽木(杉のまさめを薄くそいだ木) ・柑類(かんきつ)
・キノコ類 ・槇はだ ・木舞い ・いもがら ・なる ・薪 ・すくり(筏繋留用
ロープ) ・楊梅皮 ・椎皮 ・かづら ・根松節松 ・櫓木櫓手 ・はした物


 薪炭や木材商品、筏用の道具類、染料、食料など筏師用の商品を中心に販売が許可さ
れている。川原に建てられていたのは「川原屋」と呼ばれる組み立て式家屋で、釘を使
わず縄と鎹だけで建てられていた。速玉大社の境内に川原屋風の土産物店があるが、組
み立ては1時間、解体は30分で完了する簡便なものである。解体された建材は市中に
運び、住民は「上り家」で水が引くのを待った。このように川原町は洪水から逃れる町
であった。しかし、商取引は活発で川原節にも、


  川原なれども 三年三月 水さえでなけりゃ 蔵が建つ
と唄われたくらいである。川原商人たちで財をなした人たちは町方へ移住した。そして、
新宮経済界のリーダーになった人もでたという。また、町方の商が支店として川原町に
出店する場合もあった。高価格の商品の木材が筏で到着しだすと、川原町の方が商取引
に便利だったからである。
 川原町が最盛期を迎えたのは、大正時代である。明治になって商取引の自由化が促進
され、物資の集散地としての役割が高まった。熊野川川丈への物資や三重県方面、和歌
山県の田辺・西牟婁方面からの物資の集散地が川原であった。当然、商いが活発になり、
米屋、雑貨屋、宿屋、鍛冶屋、飲食店が軒を連ね、繁盛した。夕方になると、筏師、団
平船の船子が戻り、喧噪の巷と化した。  川原屋は建坪が小さく、1軒7、8坪(2
3〜27平方メートル)の小型のものがほとんどで、屋根は杉皮に丸石を置くといった
簡便なものであった。洪水が予測されるとすぐ解体されて避難し、水が引くと元の場所
に組み立てられた。ちょうど遊牧民のゲルのようなもので現代のプレハブ住宅がそれに
近い。与謝野 晶子が来新したおり、川原屋をみて、


  川原に 小家おかれぬ 鳥来たり 砂に産みたる 卵のやうに
と、歌っているが、建築物としては貧弱だったことはやむをえない。佐藤 良雄氏は「
熊野九十五年見聞記」(「熊野誌第四十号」)に川原町に宿泊した経験を以下のように
記述している。


  秋になって、姉の居る三里村へさそわれて行ったが、母と姉と三人で、新宮の河原
町に泊まったのは、二度と得られない体験である。河原町の家は皆組み立て式で、洪水
になったら、畳んで引きあげる。避難場所は「揚がり屋」といって、別にある。
  河原町は、平安初期から川舟のためにできたらしく、大正10年(1921年)に
は、戸数百三十軒、昭和6年(1931年)十二月三十一日現在で七十五軒と減少した
ようで、私の泊まった大正六年(1917年)には、もっと多かったろうと思う。宿屋、
飲食店、鍛冶屋、米屋,タバコ屋、湯屋、その他日用雑貨店などもあり、理髪屋もあっ
たようである。


川原町は最盛期には戸数200戸を超したといわれるから、佐藤氏が宿泊された大正6
年は繁盛していた頃だったようである。この川原町も交通機関が川船、廻船から鉄道、
バス、トラックに発達するにつれ、存在意義を失った。
物資の集散地が駅や国道に変わったため、川原町の商取引は衰退し、川原屋は次々に町
中に引き揚げていった。最後に残ったのは鍛冶屋だけになった。鍛冶屋にとっては、水
の便が良く火事の類焼の心配の無い川原は、立地条件が良かったのである。川原の鍛冶
屋は三輪崎、佐野からの移住者が多かった。戦国時代に、砂鉄を利用した三輪崎鍛冶の
伝統が残っていたからであろう。川原町の鍛冶屋は、昭和10年代はじめには10軒を
数えている。家数からみても、割合が高い。しかしながら、昭和23年(1948年)
に最後の1軒が引っ越して、新宮の川原町は消滅した。2008年9月、熊野川堤防か
らかつての川原町の跡を眺めても、その痕跡が嘘のように何もない。よく過去を水に流
すというが、文字通り過去を水に流された町が新宮の川原町なのである。



・「高池町と管流し」


 江戸時代の宝永元年(1704年)、古座川上流の西川村に紀州藩の御仕入れ方出張所
が置かれた。
 ここで材木や備長炭などの生産物を買い上げ、炭は牛車で川湊の真砂に運ばれ、川舟
で河口の高川原村岩鼻の御仕入方に納めた。しかし、木材は水量の少ない古座川支流を
運ぶため、筏を組んで下るわけにはいかず、「管流し」という方法をとった。材木を一
本ずつバラバラに流して、途中で岩にひっかかった材木を外しながら輸送するのである。
したがって、能率の悪さは言を俟たず、途中の宿屋に宿泊を重ねながらの旅であった。
今でも古座川流域には、管流しの泊まった宿屋が点在しているが、ほとんどが廃業して
いる。かつては、管流しの宿泊で賑わったであろうが、今はかつての面影がない。
 御仕入方が置かれた高川原村であるが、鎌倉時代以来の土豪高川原氏の支配地であっ
た。高川原氏は平 維盛の子孫と号しその名家ぶりを誇っていたが、慶長検地目録によ
れば村高125石、「紀伊続風土記」によれば家数76軒、人数290とあり、山沿い
の狭小な地形にかかわらず、集落を形成していた。明治8年(1875年)に池野口村
と合併し高池村となるや、明治33年(1890年)には高池町に昇格している。
 東牟婁郡では新宮町に次ぐ、町制実施であるから人口増加と産業の発展は著しかった
といえるが、その核となったのは木材である。古座川川岸には流下材をつないだハンに
木が連なっているが、ここで貯められた材木を水揚げして陸積みする作業人夫が大勢い
た。1組40人で3組あったから120人が作業に従事した。1組につき1日5000
本の材木を運び上げたから、3組では1万5000本になる。この材木を加工する木挽
き職人を合わせると300人近い人数が木材で生活したのである。さらに、材木商人や
薪炭を運んだ川船衆を加えると、その数は500を超えるだろう。
 その経済力は豪儀なもので、商談が纏まると川原で宴会である。材木商人、作業人夫
入り混じって酒盛りを一昼夜繰り広げたと伝わっている。「今昔熊野百景」という写真
集に当時の高池村の写真が掲載されているが、川沿いにたくさんの水揚げ場がつくられ
ており、木材商店や製材所が集中している様子がうかがえる。高池村を担当した和田氏
の解説によると、木材を製材した職人たちは鋸を引きながら次のような木挽き唄を唄っ
たそうである。


 木挽ゃ 米の飯 焼き味噌添えて ヨキではつるよな ここたれる


 ハァ〜 こつね喜べ お玉に言うな 1間挽いたら飯の種 2間挽いたら子のためじゃ
 3間挽いたらかかのため アー ヨイショ


   木挽きの収入の良かったのは、茶がゆでなく米の飯を食べたことでも分かるが、ヨキ
ではつるような大便をしたという表現に稼ぎの良さへの自負が見える。こつねやお玉は
高池村で評判の美人で若い衆のアイドルであったそうな。
 高池が串本地方の文化の中心であったのは、明治時代を通じて国定教科書の取り扱い
所が高池にあり、串本、田原、佐本などから買い出しに来たことからも理解できる。紀
州藩の木材販売に携わった佐藤氏は、大桑の伊東氏とともに大資産家となった。首都が
東京に移転したため建築ブームが生じて、木材の需要が急増した。飛ぶように売れたた
め、佐藤氏は東京で紀州のお大尽として浮名を流し、伊東氏は大相撲に入れあげ、出羽
の海部屋の総帥常陸山から「紀州の大旦那」と呼ばれて、頼りにされた。出羽の海部屋
は伊東氏の財力で、維持されたのである。常陸山は年始の挨拶に古座川奥の大桑まで毎
年訪れた。伊東氏は常陸山の米櫃であった。あまりの巨体ゆえ、4人がかりの人力車で
峠を越えた話が地元に伝わっている。
 以上のように、高池は串本地方の教育・文化の中心であったが、木材依存のモノカル
チュア経済は弱点を持っていた。住宅バブルがはじけ木材不況がくると、地域経済が立
ち直れなくなることだった。それとともに、降水量が減少すると管流しができなくなる
という自然現象に左右された。3年余り雨量が少なくて流下材が集まらず、作業人夫や
木挽き職人は失職したことがあった。男は大阪に出稼ぎに行き、芸者衆や飲み屋もお茶
を曳く有様で、「米の飯と焼き味噌」どころではなくなった。地元に伝わる話として有
名なのは、はるばるブラジルまで行った若い衆もいたようである。
 「マルタキタ、スグカエレ」の電報で、飛んで帰ったそうである。とにかく、スケー
ルの大きい話である。地球の裏まで行動したのは、高池住民の心意気の壮なることを示
しており、脱帽である。