昭和20年代には、旅することによって生活する人々がここかしこに見られた。たと
えば、旅役者や富山の置き薬、布地の行商、瀬戸物の行商、蛇文字の芸人、洋傘の修繕、
ポンポン菓子の商人、縁日の香具師など村から村へと旅する職業の人がいた。しかし、
昭和29年(1954年)に住民登録令が出され、現住所を明確にする必要に迫られる
と旅する人々は減ってきた。今では、残っているのは香具師ぐらいのものだろう。日本
が高度経済成長を始めると「旅から旅への渡り鳥」たちは、社会の表層から消えたので
ある。彼らはどこへいってしまったのだろうか



・「旅芸人」


 昭和31年(1956年)ごろは、旅役者が各村々を回ってきた。西牟婁郡田並村には
芝居小屋田並劇場があったため、月に一度の割合で旅役者の興行が行われた。2、3日興
行が行われると、旅役者の子供たちがクラスに緊急に入学してきた。教科書も持たないま
ったく形式的なものであったが、私たちにとってかれらの存在が物珍しくいろいろ質問し
たものである。というのは、見聞の範囲が田並村に限定されていたので外の世界の話が珍
しかったためである。かれらは「大竹劇団」という劇団に所属していたが、大阪に本拠地
を持っていた。大阪の繁華街の様子を得意げにしゃべる彼らをうらやましく思ったもので
ある。
 「大竹劇団」が村にやってくると、口上係りが鐘・太鼓をたたきながら村の辻辻で口上
を述べる。その一行を私たち小学生が後追いする。学校が終わると家に帰らずに、口上の
後をおっかけするのである。


 東西、東西。ご当地の皆様には毎度、御贔屓に預かり、厚く御礼申し上げます。さて、
今回の演目は「瞼の母」と歌謡ショー・・・。一同うちそろい皆様のご来場をお待ちいた
しております。


といったような口上をまねするのが私たちの遊びであった。
 わたしも祖母に連れられて、旅芝居を見た思い出がある。確か大竹劇団だったと思うが、
股旅ものや踊り、歌などの歌謡ショーをやっていた。今でも印象に残っているのは、歌謡
ショーで人気者の役者が登場すると、チリ紙に包んだ「おひねり」が飛ぶのである。
演じ終わった役者が、にっこり笑ってお礼をいっていた。当時は知らなかったが、「おひ
ねり」は役者個人のものになるのだからニッコリ笑うはずである。「乞食と役者は三日や
ったらやめられない」というはずである。子役の子供たちも、かわいらしいので人気があ
った。しかし、義務教育をきちんと受けない環境は、文部省の干渉を招き、子役たちは舞
台に立てなくなった。学校に行くことを義務付けられたのである。
 平和 勝次氏は「宗右衛門町ブルース」のヒット作を持つ歌手であるが、本人の舞台ト
ークによれば両親とも旅役者だったそうである。両親と別れて施設で生活した氏は、中学
校を卒業したら旅役者になろうと、決意した。というのは、旅役者になれば両親と共に暮
らせるからである。旅興行で辛酸を舐めた氏は、家族一緒の暮らしが出来るありがたさを
語っていた。確かに国家による義務教育の強制は権利の行使であろうが、しゃくし定規も
いかがなものかと思われる。 旅芸人の興行はテレビの普及とともに終わったが、熊野地
方の住民には彼らに対する差別はなかったといえる。川端 康成の「伊豆の踊り子」は大
正時代の旅芸人の一座の生活を活写しているが、そこには彼らに対するあからさまな差別
が描かれている。村の入り口には、以下の立て札が立てられていた。


 物乞い旅芸人村に立ち入るべからず


 そのような立て札が立てられなかった田並村には、いろんな旅芸人がやってきたが、今
でも印象に残っているのは操り人形を使う香具師たちである。二人ひと組で、一人は人形
を操り、一人は歌を唄う。わたしが見たのは、「真室川音頭」に合わせて人形がまるで生
きているように踊っていた。思わず見とれて大拍手をすると、アンコールをしてくれた。
かれらは箱からメンソレタームや絆創膏を取り出し、見物の大人たちに売りつけた。みん
なが買ったところをみると、芸の力に対する報酬だったと思われる。この頃は、香具師た
ちもまだ伝統を守って薬を売っていたようであるが、彼らも廃業したのか来なくなった。
営業内容が売薬から雑貨や縁日の食品・景品などに代わったからであろう。
 車 寅次郎の後輩たちに串本町の夏祭りのとき尋ねると、香具師の世界も後継者不足で
高齢化しており、特殊な技術のいるものは廃業したといっていた。以前は売上は自分のも
のであったが、今はグループのメンバーで均等配分するそうだ。香具師の世界も民主化さ
れたようである。



・「籠持ちと渡り職人」


 昭和30年頃(1955年)は日本が戦後の経済混乱から立ち直り、高度経済成長へと
舵を切ろうとしていた世相であった。しかし、田舎はまだまだ物資の交流が不活発で、ス
ーパーのような大規模小売店が進出せず、行商人たちが活躍する余地があった。当時の行
商人としては、魚の行商が一番目立った。食料品のうち、野菜は自給する家庭が多かった
ので、魚が売れ筋の商品だった。魚の行商はすべて女性で「籠持ち」と呼ばれていた。彼
女たちはブリキ缶に魚を入れ、オコ(天秤棒)で担って魚を売り歩いた。同じ人が一定の
地域を売り歩いたので、商圏ができていたようである。
 しかし、これは固定的なものでなく籠持ち同士競合する場合もあり、商圏が破られるこ
ともあったそうである。
 籠持ちは魚市場の入札に参加できない小口の商人だったから、仲買人から魚を仕入れた
が、売れ残ると一日の利益が無くなるため、売れる魚の仕入れに知恵を絞った。彼女たち
は、販売地域の客の好みや家族構成、経済状況を考えながら仕入れる。だから、完売する
のが普通であるが、読みが外れた場合、商圏外での販売となる。しかし、値引きしてしま
うと、過当競争になり共倒れとなったら、元も子もない。したがって、相互に価格協定を
したようである。今のスーパーでは、5時から値引き競争が始まるが、籠持ちは価格協定
を守って共存したようだ。私のうちはUさんから買っていたが、昭和45年(1970年)
に入って、スーパーが進出してくると籠持ちも姿を消した。
 アメリカ型の消費様式が都市から田舎へと広がり、スーパーでまとめ買いをする大量消
費社会が出現したからである。
 昭和20年代〜30年代前半にかけて、交通の未発達な間隙を縫って「渡り」職人や商
人たちが村むらを訪れた。店の多い町を避け、交通が不便で日常の買い物が不自由な農山
村が彼らの商い場となった。熊野の諸地域はこのような渡り商人・職人で賑わった。渡り
商人には衣料品、小間物、雑貨、金物、置き薬、渡り職人には靴や洋傘の修繕、鍋・釜の
修繕をする鋳掛屋、鋸の目たて職人などがあり、毎年訪れるので常連になる人もいた。か
れらは信用を得て、次に繋ぐため真面目に仕事をしていたようだが、時々トラブルが発生
した。
 昭和31年(1956年)頃、田並村に2人連れの衣料品の行商人が現れた。当時、家
計にゆとりがようやく出てきたためか、衣料品の行商が増えていた。大阪から来たという
行商人が近所のEさんの家で商売を始めた。品ぞろえが豊富なためか近所のおかみさんた
ちが買い求めた。ところが、行商人たちが立ち去ったあとで、買った布地を測り直してい
たEさんが、布地が短いと言い出した。詐欺やということになり、一行は駐在所に駆け込
んだ。駐在さんが自転車で村内を捜して回り、一行を駐在所に連れてきた。そこで両者の
言い分を聞いたのであるが、見解が対立して埒があかず、結局駐在さんが布地を図り直し
て1ヤールあたりの値段を行商人に提示させ、売値を決めたのである。両者の誤解から始
まった事件だったが、一見の商人には悪徳商法もあったようである。
 しかし、富山の置き薬のような定期的に訪問する商売は、そんなトラブルは発生しなか
った。わたしの家に来た商人は置き薬の数と使った数を調べ、価格表を提示して料金を徴
収していた。明朗会計であった。この仕組みは今でも、医療の未発達の国や地域では有効
ではないか。モンゴルやアフリカの医療は医者や薬局の配置が困難である。置き薬制度を
取り入れれば、人件費の節約になるし、病人にとっても助かるだろう。
 以上のような仕事は高度経済成長以前は成り立ったが、大量生産・大量消費社会が始ま
るとまるで蜃気楼のように消えてしまった。「改革なくして成長なし」といって、構造改
革するだけが、政治家の仕事ではない。あまり利益があがらなくても農業や漁業、林業な
どは国が保護し、維持していかなくてはいけない産業である。古いものはすべて壊せば良
いというものではない。地域を維持することの大切さを消え去った人々が教えてくれてい
る。能率と効率の追求が社会を良くするとは、限らないのである。



・「遊行する聖たち」


 柳田 国男は「毛坊主考」で遊行する宗教人を紹介しているが、そのなかに高野聖があ
る。高野聖の来歴は、八葉の聖と呼ばれる八人の遁世者が元祖と伝えているが、後に一遍
上人の遊行聖が加わり、一つの勢力を築いたといわれている。「非事吏事歴」に、


 財宝なければ善根を施すに便を得ず。諸国の路地に屍をさらす無縁の露骨を拾い、これ
を高野の霊地におさめ菩提の資料に擬す。その骨を運びける料に負口を造りて諸州に遍歴
す。


と高野聖の発生を説明しているが、きれいごとにすぎる。実態は僧侶に与えられていた関
所や渡津の自由通行と免税の特権を利用した商人だったと思われる。それでなければ、後
世に6、70といわれる聖方寺院は生まれなかった。高野山の荘園は各地に点在したが、
そこから徴収された年貢は米よりも絹などの非食料品が多かった。したがって、それを売
買するための市場がたち室町時代には、高野山は有数の市場町として栄えた。高野聖はこ
こに集められた商品を地方に売り歩く商人だったのである。僧体はしていても、半俗の輩
であるから品行が悪く「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」という諺が各地に残っ
ている。熊野地方でも、弘法大師の湯やら大師の井戸やら大師に起因した餅なし正月など
が、各地に残っていることを考えれば、高野聖の活動が活発だったといえるだろう。
 高野聖の場合は商行為を伴ったが、移動することに宗教的意義を見出す人々もいた。時
宗の開祖一遍 智真は60万人に念仏札を配ることを発願し、四国、中国、九州、信州、
東海、関東、東北、高野、熊野と全国行脚した。実に驚くべき行動範囲である。もちろん、
河野水軍出身の一遍であるから伝手を頼って船を利用しての旅であろうが、交通の便や宿
泊施設の貧弱な悪条件を考えれば人間離れした健脚である。時宗の衆徒は旅をしながら布
教し、鉢をたたき鉦をたたいて踊り念仏を開催した。これが民衆に熱狂的に受け入れられ
た。その様子は「天狗草紙」に以下のように紹介されている。


 馬衣を着て衣の裳を着けず。念仏するときは、頭を振り肩を揺すりて踊ること、野馬の
如し。騒がしきこと、山猿に異ならず。男女根を隠すことなく、食物を掴み食ひ、不当を
好む有様、併せて畜生道の業因とみる。


 まさに最大級の罵倒を放っているが、事態はこの通りだったと思える。エロチックかつ
エネルギッシュな念仏踊りは忘我の境地に時衆を導き、カタルシスを体感させたのである。
これがなければ爆発的な教団の発展はなかった。また、時宗教団の特徴のひとつに湯施行
がある。温泉による心身の治療を積極的におこなった。本宮の近くの湯の峰温泉に一遍の
爪がき念仏や万才峠に一遍の妙号碑が残っているのは、時衆の徒が湯施行をおこなってい
たからであろう。一時は時宗の支配地になっていたのではなかろうか。
 このような時宗の布教方法に強く影響を受けたのが熊野比丘尼である。熊野比丘尼が女
性の僧侶である比丘尼と区別されるのは宗教的行為とは関係ない布教法を大胆に取り入れ
たからである。もともと熊野比丘尼は熊野三山堂舎建築のための勧進を募る勧進比丘尼で
あったが、時宗との関係が深まるにつれ歌比丘尼、売り比丘尼と呼ばれる遊女と化した。
「人倫訓蒙図彙」に、


 歌比丘尼はもとは清浄の立派にて、熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣を略
して歯をみがき、頭をしさいに包みて小歌を便に色を売るなり。巧齢へたるを御寮と号し、
夫に山伏をもち、女童の弟子あまたとりてしたつるなり


と紹介されているように売春や遊芸が本業となった。そのような布教法が行き着く当然の
結果になったのであるが、性と聖との関係が難しいことをよく表している。江戸時代には
熊野比丘尼は、芝八官町、神田横大工町、浅草田原町、新大橋川端で営業していたそうで
ある。
 以上のように高野山は男性の遊行聖に、熊野三山は女性の遊行聖にその経済基盤の一端
を支えられたが、宗教活動としての汚名をも被ったのである。