柳田 国男は日本人の生活を「ハレ」と「ケ」に分類し、「ハレ」の生活を年中行事、
神祭り、盆、正月、冠婚葬祭など非日常の生活、それ以外の日常の生活を「ケ」と定義
した。しかし、1970年ごろから「ケガレ」という概念が、日本人の生活に影響を与
えたという説が提起された。桜井 徳太郎氏は「ケ」とは稲を成長させる力を意味し、
それが無くなる状態を「ケガレ」といい、それを回復する状態を「ハレ」といい、日本
人の日常生活が「ケ」から「ケガレ」、「ケガレ」から「ハレ」、「ハレ」から「ケ」
へと循環すると主張した。
 「ケガレ」という観念が日常生活に影響力を持ち出したのは、平安時代の貴族社会が
始まりである。網野 善彦は「日本の歴史を読み直す」で「ケガレ」を、


 人間と自然のそれなりに均衡のとれた状態に欠損が生じたり、均衡が崩れたりしたと
き、それによって人間社会の内部におこる畏れ、不安と結びついている


と定義している。死亡は死穢、誕生は産穢、火事は焼亡穢というふうに日常生活のあら
ゆるバランスの変化がケガレと結びつくと、それを清める人や行事が必要になってくる。
それが「ハレ」の行事である。その代表行事が祭りであるが、人間のほうでも「ケガレ」
を清める専門家の「清目」が出現する。かれらは神仏に直属する神人や寄人として位置
付られ、差別を受ける存在ではなかった。しかし、神仏の権威が凋落するにつれ、いつ
しか賎民視されるに至る。
 このように、ハレとケのはざまで生じるケガレ現象について述べてみたい。





・「清めを行う人びと」


 網野 善彦は「中世の非人と遊女」において、「きよめ」をおこなっていた賎民たち
の存在を以下のように説明している。


 坂者が塩の売買に携わったのは塩のキヨメの機能と関係があるのはいうまでもなく、
この人々は一方で千秋万歳の祝言―芸能を通して「一天下」のキヨメも行っていたので
あるが(略)十五世紀前半、一方で「穢多の事なり」とされて禁中への参入を禁じられ
ていた河原者は、他方では作庭に携わり、キヨメの白砂を用いる「禁裏御庭者」として
天皇に直属し、(略)とくに、その職能そのものが社会的に忌避された「穢」をにかか
わることの多い人々、非人、河原者、三昧聖、弊牛弊馬を扱う人や、セックスを職能と
した遊女などは、かつての「聖なるもの」との結びつきを失った結果、室町期以降、次
第に強烈な社会的賎視の下に置かれていくことになったのである。


 網野が指摘するように、中世社会において「穢」に関わった「非人」たちが塩売り、
作庭、芸能などを通じて「きよめ」の行為をすることが、職能として認められていた。
かれらが居住した河原や中州、浜、峠、境、道路などは穢れの及ばない聖なる場所と考
えられていたのである。現在でも会葬御礼に清めの塩を渡すが、穢れときよめの風習が
残っているのである。
 このケガレーキヨメのシステムを中心的に担ったのが、河原者である。民衆の日常生
活においては、「死」「産」「血」の三不浄が絶えず生産され、穢れが伝染すると中世
社会では考えられていた。したがって、穢れを清めてくれる河原者は常人にはない呪性
を身につけた異能者として、畏怖の対象であった。かれらは、村落共同体から疎外され
ていたわけではなかった。「敬して遠ざけられていた」のである。沖浦 和光は、


 かれらが居住区や職分において「穢多」とされて、強い差別を受けるようになるのは、
十七世紀の中葉以降である。(略)近世における「悪所」の制度化は、文化史のレベル
での賎民層の進出と表裏一体の関係にあった。(略)河原者を媒介項として、その深部
では、遊里と芝居町は通底していたのである。(「悪所」の民俗誌P.128〜129)


と述べ、河原者が17世紀中葉から差別視され始めたこと、「きよめ」のしごとから遊
郭経営や芸能面に進出し、庶民の娯楽を支配するようになることを指摘している。この
ことは、江戸や大坂、京都、名古屋などの大都市に限られるにしても、賎民層が巨大な
経済力をし保有していたことを示している。穢多頭の弾左衛門が、傾城屋を支配下に置
いていたことを考慮すれば、10万石の大名にも匹敵する経済力を持っていたといわれ
るのは、決して誇張ではない。
 しかし、村落共同体から疎外された賎民はそういう条件にはなく、農業、漁業、林業、
皮革、清掃、細工、土木、刑吏などの諸職に従事したが、山林の入会、、用水の管理、
祭りなどの共同体行事から疎外された。そして、「同火同婚せず」の差別を受ける存在
へと変わっていった。かつてのケガレのキヨメの職能を担う存在からケガレた存在へと
権力者によって変質させられたのである。



・「サンヤとヒマヤ」


 ケガレが「死」「産」「血」に関わる観念であれば、月経、出産はケガレの最たるも
のである。それを忌避する風習が熊野地方に残っていた。ツキヤクのある間は家族と食
事を別にして、別棟で摂ったのである。それをおこなう小屋をヒマヤと呼び、その期間
をヒマニナルと言った。母屋、神仏などに出入りを禁じた。ヒマが済むと川で禊をして
身を清め、食器を洗い、窯の火替えをし、鍋・釜の煤を払い、茶釜の水を取り換え、塩
で清めるのである。
 出産については、産屋をつくって対応した。各家のナンドを用いた例が多い。古代に
は、浜に産屋をつくり、そこに産砂を敷き出産したといわれている。産土神社の語源は
これに由来するが、へその緒はその下に埋めた。ここでは砂が、穢れを清める役割を果
たした。しかし、明治以降は嫁の里方や婚家のナンドが用いられた。産室となったナン
ドには、入り口にしめ縄を張り、出産後1週間に取り払い、屋根に上げた。東牟婁郡北
山村のように、入り口にオビバシラといって榊の木を立て、名つけの日にお宮に納めた。
同郡本宮町(現田辺市本宮町)では、産屋の四隅にハゼの木を立てしめ縄を張った。ハ
ゼにかぶれない子どもにするためだという。産婦は7日間、ナンドを出られない。別釜
の食事を強いられた。漁業関係では、夫も出漁を控えた。
 へその緒については、一般的には紙に包み、桐箱に入れて保存した。嫁入りに持たせ
たり、葬儀の際には納棺した。本宮町では、桟俵に挟み、大石で押さえたあと戸袋に埋
めた。重病の際、煎じて飲めば著しい効果が出ると信じられた。
 以上のように、ケガレを忌避するために産屋(サンヤ)や暇屋(ヒマヤ)をつくり、
別釜の生活を強制したことが基本となっていた。ケガレを清める呪具として水、塩、砂、
榊、〆縄などが用いられた。このような風習も出産が病院でなされるようになったため、
昭和40年代には廃れてしまった。



・「物忌みと忌み明け」


 葬儀は人の一生の締めくくりであり厳粛なものであるが、死穢が生じる機会と考えら
れていた。死穢からの忌み明け行事が、熊野地方でもさまざまにおこなわれた。
 食の忌みとしては、「潮かき」がある。たてまえとしては葬儀を出した家では7日間
食事を控え、8日めに神社の前の潮水をいただいてから食事をするのである。これは実
行が難しく、形式化していた。しかし、一般人は葬家から火を借りることは、たとえ煙
草の火であっても厳しく禁じられていた。串本町古座地区ではクイアゲが済むと、葬家
の家族が桶に海水を入れてオニノメツキ(柊)の枝を添えて親戚を訪れる。親戚ではそれ
を竹筒にとり、柊の枝で竈へ振りかける。そして、竈の灰や煤を取り除き、穢れを払う
のである。ここに、海水を用いての「清め」がみられる。葬家が漁家の場合は、漁船の
竈は当日に「清め」をおこなうという。同様の儀式は、串本町大島地区にもある。「八
日のシオカキ」といって、死後八日目の丑三どきに死者の親族が、葬儀に用いたわらぞ
うりを履き、浜辺に行き、歯の折れた櫛で髪を梳き、櫛とわらぞうりを海に流す。潮に
よる清めである。
 「満中陰」は49日めの忌み明けの法事であるが、この日をもって屋根裏に留まってい
た死者の霊魂は家から離れるのである。串本地方では、49の餅をついて供えた。笠餅
といって、大餅の上に48の小餅を重ねた。田辺市本宮町では、笠餅を塩をつけて食べ
たそうであるが、串本地方では半紙に包んで分配した。
 串本地方では、49日をもって死者の霊魂は那智の妙法山に行くとされている。わたし
も両親の満中陰にさいして、妙法山阿弥陀寺に詣り「亡者のひとつ鐘」を突いた。この
ひとつ鐘は冥土に届き、死者を鎮魂すると伝えられている。しかし、同じ串本町でも田
並、田子、安指、和深では死者の霊魂は、海の彼方の「補陀落」に出かけた。上野 一
夫氏の教示されるところによると、和深地区では「シオミ」といって告別式の当日の真
夜中につぎのような儀式をおこなう。(「熊野歴史研究・15号」P.47〜48)


   12時ごろ、青竹、わらぞうり、ツト(わらに包んだ握り飯)、破れた麦わら帽子をも
って浜辺に出かける。途中、口をきいてはならない。その青竹にくくりつけたわらぞう
り、ツトを砂浜にさし、麦わら帽子をかぶせる。そして、歯の折れた櫛で髪を梳き、浜
に捨てる。参加者全員が同じ行為を終えると、死者の霊魂は海の彼方の浄土に旅立つ。


  潮と砂という清めの呪具を用いた葬送儀式であるが、中世には浜が神仏の支配地であり、
穢れが及ばない地域と考えられていた遺風ではないか。浜に埋めて洗骨していたのが儀
式化し「シオミ」として継承したのではないかと、わたしは考えている。同様の風習は
紀北地方にもあり、那賀郡の山村では高野山に納骨するが、その時小さいわらじと飯に
塩味噌をいれたワラヅツをもって出かける。途中、川を渡るとこれを捨てて行くという。
中世では、川も異界への入り口であり、神仏の支配地であった。そこでは、穢れがなか
ったのである。そして、川が洗骨の場所であったことを考えると、穢れから逃れる風習
とも思えるのである。この場合は、水が穢れを清める役割を果たしていた。
 このように、浜や川を舞台として死穢を清める葬送儀式が現代でも残っているが、こ
の風習が紀南地方の両墓制につながるのである。両墓というのは、死体を埋めるステバ
カと参詣用のオガミバカをもつ葬制をいうが、火葬が普及するにつれ、減少している。
熊野地方では、白浜町や日置川町、すさみ町にみられた。ステバカへの参詣は49日まで
で、あとはオガミバカへの参詣となる。49日を過ぎると霊魂は墓にいなくなるという思
想である。このステバカについては、浜や川沿いの崖、河原につくられることが多い。
それは大波や大水によって、死体が早く洗骨され死穢から逃れやすいという現実的な理
由からであろう。しかし、火葬の普及によって火が穢れを浄化するという思想から、水
による穢れを清める両墓制は廃れていったのである。
 この両墓制のルーツはどこだろうか。平泉 澄博士は「中世に於ける社寺と社会の関
係」で以下のような注目すべき指摘をおこなっている。


 対馬は壱岐よりむしろ朝鮮に近きを思わしめる。(中略)その青海村においては今も
屍を海岸の石原に棄てて碑は別にこれを立てる風習を伝え、まったく朝鮮と同じ風俗で
あった・・・
 朝鮮半島、対馬、紀伊半島と三つの地域に同じ両墓制が残っていることから、水によ
る穢れを清める風習は朝鮮半島にルーツをもち、そこから渡来したと考えるのが合理的
である。西日本の方言には朝鮮語の変形したものが多いという指摘もあることから、朝
鮮半島と紀伊半島との交流の深さが推測される。



・「陰陽師」


 物忌みが穢れに対する消極的対応であるのに対して積極的対応が「祓い」である。こ
の祓いを行ったのが「陰陽師」であり、国家的規模の祓いは官人陰陽師、民間の祓いは
法師陰陽師と呼ばれる私度僧が担当した。陰陽師が依拠した原理である「陰陽道」は、
中国の道教と日本の古神道を融合させて天武天皇が創始したといわれている。陰陽道の
原理を簡略に述べれば、以下のようになる。


   木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ずる。
 木は土に剋ち、土は水に剋ち、水は火に剋ち、火は金に剋ち、金は木に剋つ。


火、水,木、金、土の五つの要素の相性と相剋とから森羅万象を説明する。詳細は戸矢
 学「陰陽道とはなにか」P.59を参照していただきたいが、陰陽五行の原理に基づ
く思想・技術体系である。


それが密教や修験道を取り入れて科学と呪術が入り混った原理として成長し、日本人の
思想や行動に大きな影響を与え続けている。例えば、十二支や十干による暦、風水によ
る家相・地相・墓相などの吉凶占いは現在でも民衆に受け入れられているし、歴史的に
見て貴族の政敵打倒呪術の頻繁さは枚挙にいとまがない。陰陽道のスーパースター阿倍
 晴明、陰陽道の創始者天武天皇、風水による首都建設をおこなった桓武天皇、江戸幕
府の都市設計を担当した天海僧正、修験道の創始者役 小角、奈良時代の大政治家の吉
備 真備などの陰陽師たちは、政治的社会的に大きな影響を与えた。
 しかしながら、そのような支配者や歴史的人物でなくても民間には穢れを払う「芸能
人」たちがいた。網野 善彦は「無縁・公界・楽」において、遍歴した「芸能人」を「
道々の者」として紹介しているが、そのなかに宗教系の「芸能人」に陰陽師や巫女がい
る。このような「道々の者」が地域を回遊しながら、厄や穢れから逃れようとする民衆
の需要に応えていった。その呪法は戸矢氏の前掲書によれば、以下のようなものである。


   ・式神  十二の天将を十二支、十干、五行に当てはめ、六つの凶将はタブー(禁忌
  )、六つの吉将は活用する。特に方位が凶将になる時は、「方たがえ」をして運気
  を好転させる。


   ・晴明紋 いわゆる「五芒星」をさす。ペンタグラムとして古代ギリシャの数学者が
  シンボルマークとした。護符として絵馬や守り札に使用する。同様の呪符に「九字」
  がある。修験道や密教の呪法に用いるが、横線5本、縦線4本を組み合わせ、「臨・
  兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の呪文を唱え厄を祓う。晴明紋の場合は、「セ
  ーマン・ドーマン」の呪文を唱える。セーマンは晴明、ドーマンは蘆屋 道満の両
  陰陽師を意味するのか? 


 ・方違え 十二将のうち凶将の方位のあるときは、家屋の新築、修理、移転、婚姻、
  井戸堀は禁止であった。しかし、止むをえない事情で実施するさいは、「方たがえ」
  をおこなった。吉方位に移動して、目的地が凶方位にならないようにする。


 ・身固め 着衣の加持をおこない穢れを祓う。あるいは人形に厄や穢れを移し、川に
  流すなどの方法をとる。これを「撫で物」という。「雛流し」などは「撫で物」の
  例である。


 ・呪符  呪文を書きつけた霊符で、陰陽道では「キュウキュウニョリツリョウ」と
  書いた。「急急如律令」の意味であり、後に九字や五芒星、神仏名、絵などが加え
  られた。社寺で発行されるお札やお守りの原型である。


 ・鬼門  東北の方向を鬼門と呼び、厄気が入り込まないように「鬼門封じ」をする
  ことが陰陽師の仕事である。鬼門封じの祈祷や呪符を祀った。


 ・祓い  穢れや厄を払うに際して、紙人形をつくりそれを撫でて穢れを移し替える。
  その紙人形を燃やしたり(焚き上げ)、川に流したり(形代流し)してお祓いをし
  た。「呪いの藁人形」などもこの「撫で物」の変形である。


 ・神楽  神楽には「へんぱい」という陰陽道の歩行術を取り入れたものがある。呪
  文を唱えながら土地を踏み、邪気を祓う。相撲の四股を踏むのも邪気を除く意味が
  ある。 


以上のような呪法が陰陽師に用いられたが、このうちのいくつかは現代でも日常生活に
根付いている。式神による吉凶や六曜による冠婚葬祭の日程決定は、常態化している。
大安の結婚式、友引の葬式忌避などは、若者にも浸透している。神社、仏閣でのお守り
や祈祷は、21世紀に至っても隆盛を極めている。常識の範囲で用いられれば生活の潤滑
油であるが、悪徳宗教ビジネスと結びつけば生活破綻につながる。2006年の大晦日
に某女性占い師が、テレビ番組でライブドアの株が5倍になると予言していた。しかし、
事実は翌年2月にライブドアは破産し、株は紙屑となった。占いを信じて株を買った視
聴者は損をしたのである。なかには、虎の子をなくしてしまった中、高生や高齢者もい
たらしい。
 デーブ・スペクター氏は「このようないい加減な占い師を公共の電波に登場させたテ
レビ局の責任が大きい。」とコメントしていたが、正論である。視聴率をとるための安
易な番組作りは、慎みたいものだ。最近、映画や小説での「陰陽師ブーム」が若者世代
に支持されているそうだが、鵜呑みにしないで科学的な対応を忘れないでほしい。この
世には超常現象や超能力は無いのである。そのように見えるのはマジックにすぎない。
ある修験道系の教祖が、念力によって護摩壇の護摩木を燃やすと称して祈祷した。確か
に燃えだしたが、これは水をかけたら燃える化学薬品に護摩木を浸けていたためである。
着火しないから念力に見えるが、水で燃えだす薬品もある。種明かしをしないから超能
力に見えるだけである。わたしたちは、悪徳宗教ビジネスに騙されない見識を磨こうで
はないか。