・「ハレとケの食事」


 熊野地方平地少なく、平見と呼ばれる海岸段丘と山また山の紀伊山地が大部分を占
める地域である。水田は会津川、富田川、日置川、すさみ川、古座川、田原川、太田
川、熊野川の流域や小河川の谷沿いに点在しているに過ぎない。したがって、主食も
米よりも雑穀が中心だった。熊野地方に限らず、紀伊山地の山民の食生活は粗食に尽
きる。十津川郷土資料館に展示されている十津川郷士の中川宮への嘆願状によれば、


 食に乏しく、土民共雑穀・木の実を食い、山中に入り、材木諸品を稼ぎ出し、値を
もって米塩を買い入れ・・・


とある。幕末の状況だが、明治になっても食事情は変わらなかった。熊野地方におい
ても同様で、主食は雑穀を用いた「紀州茶がゆ」である。紀州茶がゆは、麦90%に
米10%を混ぜた麦粥が普通だが、サツマイモを入れた芋粥、大豆、粟、そばなどを
入れる粥もあった。昭和に入ると食糧事情は向上し、日常食は粥から麦飯になった。
米と麦が半分ずつの麦飯で、純粋の米食は旦那衆しか食べなかった。米を減らす工夫
は各地で取り組まれ、串本町有田地区ではウケダといって米を鉄板で炒って焼米にし、
芋を入れて炊くのである。水分の吸収がよくなり、米の消費量が抑えられた。
 熊野川や古座川流域の山村では、代用食として木の実団子をつくった。木の実団子
として用いられたのは栃の実で、大木になれば数石とれるといわれている。米1石が
150kgであるから、700〜800kgの実が収穫でき、食料としての重要性は
高かったといえる。山村では、栃の木は財産として子どもに分与されたくらいである。
しかし、アクが強く、アク抜きをしないと食用にはならなかった。アク抜きとして用
いられたのが灰汁である。栃の実を灰汁につけて煮出し、乾かして粉にひき流水につ
けて苦味をとる。苦味がとれるまで、繰り返すので手間がかかった。しかし、栃の実
はデンプンの含有量が高く、栄養学からみればスグレモノであった。栃の実は栃餅と
して、熊野地方の物産センターで販売されている。独特の風味があり、焼いて食べる
とおいしいので好評だそうだ。
 熊野地方では山村部を「奥」、海岸部を「灘」と呼ぶが、「灘」の代用食がサツマ
イモである。熊野地方の海岸部はリアス式海岸が多く、海岸段丘が発達している。水
利が良くない点と土壌の酸性の強さで作物の育成が不十分な土地が多いが、凶荒作物
であるサツマイモの栽培に適していた。寒風が吹き始める12月ごろになると、サツ
マイモを茹で包丁で薄く切り、ムシロに干して6,7日風にさらす。すると、芋の表
面にデンプンの粉が白く吹き出て、干し芋が完成する。これを保存食にした。このよ
うに日常食は雑穀や芋類を中心にした粗食であったが、食事の回数は朝、昼、夕の三
食のほかにヨツジャ、ヤツジャ、ヤコセという間食もあった。これらは農繁期などの
繁忙期に行われたが、朝食、昼食、夕食の残り物や代用食を用いた。
 これに対してハレの日の御馳走は、米を中心にしたものである。正月、盆、祭りぐ
らいのものだが、米を用いた料理の代表がスシである。「奥」のほうでは、サイラ(
秋刀魚)のナレズシをつくった。サイラを1か月あまり塩に浸し、祭りの10日前に
水につけて塩出しをする。固めに炊いたご飯を塩で練り、サイラを被せてアセの葉で
包む。これを仕込み桶に入れて、重石をすると出来上がりである。サイラのナレズシ
は酢を使わないで、発酵させた食品であるため独特の臭いと味をしている。慣れない
と舌が受け付けないが、酒の肴につまむと酒の味が良くなるという。わたしも時々食
べるが、慣れると結構いける味である。ナレズシはスシの古来の製法による発酵食品
で保存食であった。サイラを使わずアユを用いたのがアユズシである。熊野川流域の
名産品でアユを脊割にして塩づけをし、2週間ぐらいで水洗いをして柔らかめのご飯
を詰めて腹合わせにする。桶に入れて重石をし、水を張る。3週間ぐらいで食べごろ
となる。このような発酵ズシは食べ慣れないと口に入りにくいが、慣れると通にはこ
たえられない味となるようだ。
 「灘」のほうでは酢を使ったオシズシとカキマゼをつくる。オシズシはサバを用い
ることが多い。串本町田並のオシズシは酢に漬けたサバと醤油で煮しめた人参、かん
ぴょう、高野どうふ、椎茸を箱に詰めた酢飯の上に載せる。その上にボンガシワの葉
を敷き、飯と具を重ねてゆく。重石をかけて2,3日置くと食べごろになる。サバの
代わりにサエラ(秋刀魚)を柚子酢に浸けて臭みをとり、上に昆布を乗せて重石をかけ
る方法もある。これらは費用がかかるため贅沢な食べ物であった。庶民はもっぱらカ
キマゼ専用である。これはサバで出汁をとり、醤油で人参、昆布、高野豆腐、椎茸を
煮しめ酢飯に混ぜる混ぜ寿司である。家族が多いと簡便な料理のほうが実際的、経済
的である。庶民の御馳走としては、カキマゼが主流であった。
 それにしても、21世紀の食生活の豊かさには驚かされる。毎日の食事がハレの日の
御馳走である。正月ぐらいしか食べれなかったスキヤキが日常食になっている。グル
メブームとかで肉ならどこの産地のものでもO.K.とはいかないそうだ。松阪牛、
飛騨牛、但馬牛などブランド品がもて囃されるそうだが、わたしにはその違いがよく
わからない。私にとっては、クジラのステーキや和牛のスキヤキが懐かしいし、とて
もうまかった記憶がある。贅沢な食生活が幸せとは限らない。少しメタボになった腹
を撫でながら、反省する今日この頃である。



・「ハレギとフダンギ」


 晴れ着という表現があるように、以前は普段着とよそいきの衣服が異なっていた。
江戸時代以前には衣服は身分の象徴でもあった。したがって、どんな品質の衣服を着
るかが階級や身分を表現していたのである。しかし、明治以降繊維産業が発達し、大
量生産された衣料品が出回るにつれて衣服は身分を象徴するものでなくなった。熊野
地方では、昭和20年代までは作業着として昔の服装が残っていたが、現在は全く見ら
れない。
 日常の作業着として男子は、頭に手拭いで頬かぶり、木綿の筒袖、股引に腕ぬき、
手甲、脚絆といういでたちである。女子は、筒袖にもんぺ、腕抜き、手甲を巻き、前
掛けをする。足は藁ぞうりである。冬になると綿入れをはおる。腰までの長さのもの
で、男子用はハンテン、女子用はハンチャという。陽ざしを防ぐ帽子として、田植え
時期には男女とも菅笠をかぶったが、熊野地方では雪帽というひさしのついた布製の
帽子を女性がかぶった。わたしの祖母などもこの雪帽の愛用者で、防暑・防寒に都合
がよかった。2008年の作業着は、作業帽に作業服、地下足袋が一般的であるが、耐久
性や機能性では遙かに優れている。以上は、農作業の服装であるが、漁村では褌に差
し子をはおるのが一般的であるが、冬は防寒用に防寒頭巾や綿入れをはおった。とに
かく、海水を浴びやすいので、裸一貫の服装であった。
 普段着は木綿が中心で、自家製であった。機織り機や糸巻き機、糸繰機が各家庭に
供えられ、衣類は自給したのである。帯は小倉紺帯と浅黄木綿の三尺帯を用いた。足
袋は普段は履かず、冠婚葬祭専用であった。下駄は杉板割に竹皮の鼻緒が普通であっ
た。式日には羽織を用いたが、これは上流階級のみで、中流以下は羽織は用いなかっ
た。「庄屋羽織」という言葉が残っているほどである。
 しかし、時代も明治・大正・昭和と進むにつれ服装も身分を象徴するものから大衆
化して、式日や冠婚葬祭には中流以下も羽織・袴を用いるようになった。
 熊野地方では、晴れ着のことを「よそゆき」とか「いっちょうら」と呼んでいる。
正月、盆、祭り、初午などの年中行事のハレの日や卒業式や入学式の式日に着る着物
である。戦前には和服に袴が正装であったが、戦後は洋服であった。それも長ズボン
が多かった。半ズボンをはいていたのは医者の息子ぐらいであった。
 女性の晴れ着でも絹物を着るのはほとんどなく、木綿に絹が少し入った程度である。
しかし、2008年の串本町の成人式では女性全員が絹の振りそでである。明治初年から
140年後の日本は、中流以下が贅沢できる経済状態になったのである。もちろん、全員
が自己所有ではないが、賃貸料は15万円という高額である。高度経済成長はケとハレ
の衣服の差をなくすとともに、衣服の身分・階級差をも無くしていったのである。



・「所かわれば家かわる」


 和歌山県は平地が5.5%で残りが山地や台地であるため、家の構造も地形に合わ
せて多様である。串本町古座地区は古座川と山地に挟まれた細長い平地が続いている。
藤原 宗忠が「中右記」に古座浦を小狭浦と表記しているように、小さく狭い地形が
地名のいわれとなった土地である。そこに家屋が密集しているため、おのずと細長い
構造となる。この地区は漁家が多く、以下のような片側住宅が一般的であった。


 物置    土間   風呂


             便所

              炊事場

板の間          竈

 囲炉裏


寝間           戸棚


表の間          物置

     道   路


 土間を中央にして、右手に風呂、便所、炊事場、竈を並列させ、左手に居住部屋を
並列させるという縦長の構造となっている。道路に面して6畳、4,5畳、4.5畳
の3間続きになっている。中央に土間があるため、緊急時の避難に便利である。江戸
時代に発生した大火の教訓をいかした構造である。
 山村では崖沿いに片側住宅を建てるのが一般的であった。田辺市大塔村の住宅の場
合は、以下の構造になっている。


        崖

便所   
土間    竈 板の間 茶の間      納戸
             囲炉裏



 崖に沿って横長の2間住宅となっている。板の間は居住区でなく、竈の作業場とし
て狭くつくられている。囲炉裏は茶の間に置かれ、そこが家族の団欒の場である。納
戸は寝室で、仏壇や貴重品置き場であった。このような横長の構造は、暖房効果が高
く経済的であった。土間は作業場で縄ない、草履つくり、精米などの夜なべ仕事をお
こなった。便所は、戸外に小便桶(小便たんご)を置いた。日本狼が生息していた時
代には、真夜中に狼が塩分補給のため小便桶から小便を飲み干していたという証言も
あった。
 河原に建てられた住宅として川原屋がある。前述したように新宮市の熊野川河原に
建てられていた簡易住宅である。洪水から逃れるため、組み立て90分、解体30分
の簡易住宅で、釘を用いないのが特徴である。昭和23年に消滅したが、その原型を
留めていると思える住宅が新宮市中相筋に残されている。N氏の住宅であるが、「熊
野誌52号」掲載の丸山 奈巳氏の『洪水から逃げる街』によれば、以下の構造にな
っている。


     竈 流し   下屋部分

入り口 土間              裏出入り口


        板の間     ジョイント  板の間




                   押入れ


 板の間をジョイント部分で結合していけば増築は土地のスペースがある限り可能で
ある。中相筋には3間続きの住宅も残っていることから、用途に応じて増築したもの
と思える。鍛冶屋などは仕事場の隣に家族の居住区を増築して暮したし、米屋や酒屋
は店の部分と居住区を分けて増築した。しかし、宿屋や風呂屋は規模を大きくする必
要から3間続き、4間続きと増築した。こうなると、解体・運搬・組み立てと手間が
かかるため、上がり家のほうが便利になる。結局、上がり家で営業する方向に向かっ
た。河原屋には客引きだけが、居住した。鍛冶屋のように火を使う仕事は、防火や類
焼の難を避けるため川原での居住を続けたが、鍛冶屋の仕事が不振になったため撤退
した。
 台地の住宅として串本町潮岬の4つ間住宅があげられる。 潮岬は畑作中心で、サ
ツマイモやオオムギ、花卉が主産物である。小規模農家が多く、半農半漁の兼業農家
が85%以上を占めている。敷地が広いため、母屋以外の付属建築が目立つ。


納戸       中の間     竈  流し   天水槽     便所

                    水がめ          物置


上の間      あがりと       土間           木納屋



 仏壇     縁     の         出入口          おりや


    あ     ら     け                寝屋


農               床              菜      園


                    門  口

   道                        路


 以上のような構造の住宅が多い。納戸は主人夫婦の寝室である。たんすや衣桁など
を置き、貴重品をしまった。中の間は食事をする場所で、食事以外では裁縫や糸繰り
などの手仕事をおこなった。竈の口は板の間で、むしろを敷いて煮焚きした。流しは
炊事場である。水がめは天水槽から水を汲んで貯めておくのである。台地で井戸を掘
るのが高価であり、たいていは天水を利用した。水汲みは子供の仕事であった。上の
間はいわゆる客間であるが、客のない時は子供の寝室となった。家族団欒の居間の役
割をしたのが「あがりと」であった。「あがりと」の床下には壺が掘ってあり、サツ
マイモの貯蔵庫として使った。これを下屋といった。以上が母屋の間取りであるが、
別の建物を「はなれ」と呼んだ。「はなれ」には、便所(ちょうず)、物置(農具、
漁具、工具を置く)、木納屋(マキや炭の貯蔵庫)、おりや(牛小屋)、寝屋(家督
を譲って隠居した老人部屋)が置かれていた。
 潮岬の農家で目立つのは「あらけ」と呼ばれる母屋の前の空間である。ここでむし
ろにカンペダイコンを干したり、干し芋を干したり、干物を作ったりした。ここが農
作業の場所として重宝に使われた。菜園は自家消費用の野菜をつくった。農床は野菜
のほかにサツマイモや麦を植えて収穫を増やした。いわゆる観賞用の庭園を持つ家は
少なかったが「せんだい」と呼び、富裕層の農家につくられた。なお、潮岬は風が強
く、2階建建築はご法度だった。しかし、1970年代からの宅地開発の波は、潮岬
にも2階建建築を次々とつくっていった。鉄筋性、鉄骨性建築なので大丈夫と思うが、
地元民は2階建を避けている。被害が無きことを祈るのみである。