・「田原のねんねこ祭り」


 2008年12月7日、串本町田原地区木の葉神社でおこなわれたねんねこ祭に初参
加した。
 ねんねこ祭は子供が主役の祭りで、木の葉神社は俗にねんねこの宮と呼ばれ、子授け、
安産、育児、乳児の難病に霊験があるとされる。この神社の由緒は天明3年(1783年
)の火災で社殿が焼失したため、古文書が残っておらず不詳である。しかし、田原村誌に
以下の記述があるので紹介すると、


 (前略)当社は古くより田原の「ねんねこ様」と唱え、安産の守護神として遠近の尊崇
浅からず、その祭式も甚だ古雅にして毎年十二月一日(古くは旧十二月初卯の日)、男
子七人と十四歳の女子一人が式典に列し、ゴザと枕と乳を神前に供え、代わる代わる之
を棒持して出産の真似ごとをなす行事あり、(中略)当社は古来神殿の設け無し。一段高
き神地に樹木おい茂れるのみ。木の葉神社の名は之より起これるものか。


とある。「ねんねこ祭」には、四つの注目すべき特徴がある。
注目すべき1点めは、「古来社殿の設け無し。一段高き神地に樹木おい茂れるのみ。」
の説明である。これは矢倉信仰の特徴そのもので、古来からの自然物崇拝の古信仰が本
質であった。樹木を祭神としたため「木の葉」の社名が生じたとあるが、妥当であろう。
現在の祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)となっているが、「このは」から連想
したものと、推察される。このように樹木が神の依り代となっていたのであろうが、故
障が生じて現在は白い浜石を山形に重ねたものに変更されている。祭神となった樹木は
桜の巨木ではなかろうか。というのは、木花咲耶姫は山桜の化身といわれているからで
ある。熊野地方の矢倉信仰では、祭神となっている樹木は榊や楠が多いが、山桜の美が
女神の依り代となるのは極めて自然である。
 「ねんねこ祭」の神事として注目すべき2点めに、「日の出遥拝神事」がある。矢倉
信仰の本質は「一陽来復」を願う太陽信仰であるが、「日の出遥拝神事」ほどその本質
を示した神事は珍しい。神事は夜明けに神前で祝詞をあげ、日の出遥拝所に向かう。天
蓋・清め役・ご飯持ち・大弊・鈴・神職・弊・巫舞い・太鼓屋台・子供神輿の順に1時
間かけて遥拝所に到着する。日の出遥拝が終わると、神前で湯立ちの祓いを受けて神事
は終了する。この神事で重要なのは、きよめの役を婦人がすることである。潮桶に入れ
た潮を榊の小枝で道に降り注ぐのであるが、従来は女性は穢れが多いとの理由ではずさ
れていた。それがないのは女性神に関わる神事だからだろうか。
 注目すべき3点めは、出産・育児にかかわる神事が重視されていることである。祭り
の神事は豊作祈願の農耕儀礼が大部分であるが、出産は縄文時代から人の再生産を司る
行為として重視されてきた。不思議なことに、出産・育児が神事として継承されている
例が少ない。「子守り」神事が重要なのは、それが継承されているからである。子守り
神事は弓取りから始まる。宮司が矢をつがえ、


 タンタニノ タノクルデ ウズライテ ハンネクロ(丹谷の田の畔で鶉を射て羽をく
れ)


と呪文を唱えて矢を空に放つ。これは悪霊を除去するためである。清祓いが終わると、
宮司と御幣もちが茣蓙の中央に蜜柑を置き、「蜜柑くらおか 柑子くらおか 酒のもか」
と唱えて、茣蓙で蜜柑を包む。そして、首の後ろに茣蓙を巻いて、


   ネンネコ ネンネコ オロロンヨ(寝た子供の霊よ 鎮まれ)


と、呪文を唱えて回るのである。そして、米を袋に入れ、枕と乳房の形に作ったものを
神前から受け取って、胸に当てて同じ呪文を唱える。「田原村誌」にあるがごとく「出
産の真似ごと」を演じるのである。神事には性交を象徴しているものが多いが、出産を
象徴しているものは少なく、貴重である。
 注目すべき4点めは、祭礼日が12月1日だったことである。現在では、諸事情で12
月の第一日曜日に行われているが、12月1日は川浸りの朔日で、正月の行事の始まり
の日である。旧暦では12月の初卯に日におこなわれていたことから、先祖霊の招霊行
事を始めるさきがけの行事であったことが知られる。
 朝6時頃より始まった祭りも獅子舞の奉納で終わったが、氏子総代会の海老汁の振る
舞いを受け、大いに満足して帰宅した。4時間余りの興味深い祭礼であった。この祭り
は和歌山県無形文化財に指定されている。



・「大島の水門祭」


 私は2008年3月まで串本町立大島中学校に勤務していた。教え子たちがこの祭り
に参加したり、総合的学習で「水門祭」を調べたりしたので、比較的身近に接した祭礼
である。この祭りは和歌山県無形文化財に指定され、民俗学的な重要性をもっている。
 この祭りの特徴のひとつめは、太陽祭祀の神事が重視されることである。椎の枝を山
形に取り付け、その頂上に鏡(扇3枚を円形に合せたもの)を飾る。これをお山と呼ぶ。
この鏡を争奪する神事を「お山倒し」といって、水門祭のメイン神事となっている。こ
の鏡は元は銅鏡を使っていたが破損を避けるため扇を代用するようになった。この扇は
太陽を象徴したもので、五穀豊穣を祈願する神事である。お山倒しの後は屋台ねりが行
われる。これは櫂伝馬レースの鳳組と隼組に分かれてねり合うが、レースで負けた組の
うっぷん晴らしの意味があった。負けた方がお山倒しでは勝つのである。それでめでた
し、めでたしとなる。このように祭礼にはバランスを保つ配慮があった。
 特徴のふたつめは海民系の神事が多いことである。祭神がホムダワケ=応神天皇で、
神功皇后伝説が通夜島、船隠し、神屋敷などの地名に残っている。北九州の海民である
安曇族に伝わる伝説と同じである。神幸の儀(御神体を納めた唐びつを宮から当船に運
ぶ)、渡御の儀(当船を船出させ苗我島で弓取りを行い、鰹釣りの儀式をして入港する)、
櫂伝馬競争など漁業関係の神事が続く。
 特徴のみっつめは、上方の商人文化の影響が大きいことである。つるの儀がその中心
であるが、舞台に登場する役者は武士の格好をした老女である似士子(にせこ)、じょ
うろう、とのい、酒絞り、連雀、弓持ち、籠ふりなどの稚児、商人など商取引に関連し
た神事が行われる。商人の口上は以下の如く勇壮活発なものである。


 東西、東西、当浦大漁、当浦大漁、幸せ吉、天下泰平、五穀豊穣、豊年万作、万万歳
 金襴緞子、綾錦、縮緬


 これは江戸時代の廻船の寄港地だった大島が、商取引が活発で上方文化の影響を受け
たためといわれている。かつては「せり」などの口上も行われていたようである。使わ
れている衣装なども高価なものが多く、経済力の高さが伺える。
 特徴のよっつめは、清祓い、先祖霊の送還行事である。1月15日に獅子だしを行う
が、この日は正月行事が終わり、先祖霊が帰る日である。この日は今年の農漁業の予祝
の日であり、一年の豊作豊漁を占う日である。本祭の2月11日には清めの神楽が奉納
され、どんと焼きが行われる。これで穢れが除去されて、すがすがしい一年を送るので
ある。
 以上のように太陽祭祀の古代信仰、海民系の行事、上方文化、清祓い行事などが融合
されて、重厚かつ劇的な構成をもった祭礼となっている。



・「那智の扇祭」


 那智の扇神輿を最初に見たのは、国立民族学博物館であった。華麗さで他を圧してい
たが実際の祭に使用される場面は見たことがなかった。というのは、扇祭は7月14日
で仕事中であり、休暇をとってまで参観できなかった。2008年、退職を機に念願の
扇祭を見物にでかけた。暑さに閉口しながら、この日は先祖霊の交歓の日にあたること
に気づいた。7月14日に行われるのも、年中行事の五行では、火は土を生じるにあた
るからである。太陽の象徴である日の丸を描いた扇を神輿にとりつけ、「光」「蝶の鬚」
「縁松」「桧扇の花」を飾り付けているのは五穀豊穣を願ってのことであろう。神輿に
特徴があり、縦10、幅1mの細長い板に緞子を張っている。それを勢い良く立てるの
である。これは太陽の恵みに対する五穀の成長を感謝しているさまを象徴した儀式であ
ろうか。
 第二に大松明を用いた清祓いの儀式をおこなうのが特徴である。折烏帽子に白装束の
氏子が12本の松明を乱舞させながら、石畳のうえを駆け上がるさまは勇壮かつ厳粛な
ものであり、「那智の火祭り」と呼ばれる由縁であろう。火祭りが那智の大滝でおこな
われるのは、雨乞いの意味もあるのであり、水は火に剋つの五行の思想からである。熊
野地方では日照りが続くと、妙法の火祭りや那智の火祭りの火をたばるという。その燈
火を分けてもらい、雨乞いをするのである。
 第三に祭りに参加できるのは、那智大社の氏子のみという特徴がある。中世に宮座が
結成されたが、宮座に属した氏子が祭りの担い手であった。祭りの神事はかれらが司り
世襲してきた。したがって他所で生活しても祭礼には帰郷して参加しなければならない。
中世以来の宮座の伝統が残っているのは近来は稀である。
 第四の特徴は、田楽舞が奉納されることである。田楽は本来は田の神に奉納する神楽
であった。山の神が川を伝って田に入る。そして稲を成長させるのである。これは鎌倉
時代に隆盛を迎えた。鎌倉幕府の15代執権の北条 高時などは、田楽に狂って真夜中
に烏天狗と踊っていたといわれている。庶民にも熱狂的に迎えられた。那智田楽の場合
は、応永10年(1403年)に京都から宗正と法輪を招いて習得したとされている。
舞人は綾藺笠(いあいがさ)を被り、緞子の直垂(ひたたれ)、はなだ色のくくりばか
まをはくという装束である。楽器は笛、腰太鼓、ささらを用いる。地の神を鎮め、田の
神を慰める踊りをおどることによって豊作を祈願するのである。これは国の重要無形文
化財に指定されている。
 このように扇祭は、太陽祭祀、豊作祈願、雨乞いなどの要素を取り入れ、伝統行事と
して今も盛んに観客を集めている。



・「神倉山の御燈祭」


  お灯まつりは 男のまつり   セノヨイヤサノセ
  山は火の海 下り竜  サッサエッサレヤレコノサ ヒーヤーリ ハリハリ


  新宮節に唄われているように、2月6日の御燈祭は火祭りとして人口に膾炙してい
る。鞍馬の火祭、那智の火祭りなどとともに三大火祭りと称するむきもある。初午の日
におこなわれるから厄払いの行事として行われたのであろう。しかしながら、神倉山は
ゴトビキ岩を神体とする原始信仰の神社である。天の神が大岩に天下り、その霊を崇拝
する素朴な信仰であった。それが弥生時代には青銅器を楽器に祭礼をおこなう神道形式
の信仰に変容していった。さらには、中世には修験道の行場となり、火を用いた火祭り
として整理されたと考えられる。火には穢れを祓い清めるという効用がある。中世には
穢れを払うには形代に穢れを移し、焼くか流すかして清めたのである。御燈祭の特徴と
して、清めの儀式があげられる。
 第二に「上り子」と呼ばれる参加者は、白装束に荒縄、草鞋といった服装であるが、
これは死に装束を象徴している。修験道では「擬死再生」を目的に修行するが、山に登
ることは現世の縁を切って新しく生まれ変わることを意味する。「上り子」が手にする
松明の御神火を移して、528段の階段を下りおりるさまは壮観で、火の川が流れ去る
ようである。以前は一番に下った人には、米1俵の景品が出たようであるが、今は名誉
だけのようだ。
 特徴の第三は、氏子以外の参加が認められていることである。幕末の砲術家であった
坂本 天山はこの祭りを目撃して「天下の奇祭にして、ほかに例がない」と記している。
まったく、その原始的なエネルギーの爆発ぶりには、引き込まれる。一度参加すると、
病みつきになりそうだ。
 天山は参加者500人と驚いているが、現在は2000人近くにのぼる。故中上 健
次氏などは帰郷して必ず参加したそうだ。わたしも友人から誘われているが、辞退して
いる。2000年に見物したとき、「介錯」と呼ばれる警護人と上り子が大げんかを始
め、頭から血が噴き出た姿を目撃したためである。また、同時に置き去りにされた中学
生を連れておりたこともあった。熱狂的な祭典は現実世界のしがらみを切る役目をはた
したのである。
 このように、「清め」「擬死再生」「開放性」を備えた祭は、山人祭の傾向が強い。



・「古座川の河内祭」


  御燈祭が火祭りなら河内(こうち)祭は水祭りである。河内神社は古座川河口から
3km上流の 宇津木にある川中の小島である。もとは河内島とよばれ、島が神体で社
殿がない。矢倉信仰の典型であるが、古座の氏子たちは「こおったま」とよんだ。この
「こおったま」は水を重視しており、氏子たちはお産のときはここの水で産湯をつかい、
初孫の禊もここの水をつかう。また出漁では竹筒に神水をいただき、大漁祈願をする。
遠くは源平合戦のときも、この神水が効をを奏して勝利した。このように水が重視され
る祭である。
 第二の特徴として、河内神社の祭神がスサノオとされたことである。スサノオは牛頭
天王とも呼ばれ、京都祇園の八坂神社が本社である。この牛頭天王は疱瘡退治の神とい
われた。幕末に古座地区に天然痘が流行した。そこで地区民は神水を与え、災厄を逃れ
ようとしたが勢いがすさまじく、多数の死者がでた。天然痘は高熱で、感染力が強いた
め忌避されて墓も別であった。鳥屋の森などに埋葬されたのである。天然痘については、
小山 蓬州などの治療が効を奏し終束したが、さすがの「こおったま」もお手上げであ
った。
 河内祭は古くは陰暦6月の初丑の日であったが、現在は7月24日である。源平合戦
の戦死者の御霊を祀ったものといわれているが、定かでない。宵宮は御船三隻が船歌を
歌いながら夜ごもりをする。
 本祭は当船、獅子伝馬、櫂伝馬、屋形船が上り、獅子舞が奉納される。中学生による
櫂伝馬レースが勇壮におこなわれ、各地区に帰って終了する。水軍に関わる行事が多い
が、古座の鯨方の捕鯨漁からくる行事かもしれない。とにかく、水祭りの傾向が強く、
海民の祭りの典型である。