・「船霊さま」


 串本町は本州最南端の町で、黒潮の中に突っ込んだ地形である。もちろ
ん、黒潮の影響を大きく受けており、黒潮の恵みとともに恐ろしさも十二
分に味わってきた。海難事故も多発して、家族の心配も尽きなかった。わ
たしの潮岬中学校の同級生、山下 正君の叔父さんも漁師であったが、一
度遭難している。潮岬沖で鰹を釣っていたところ、エンジンのトラブルで
漂流したのである。潮岬沖で遭難すると、黒潮に乗って八丈島に漂着する
ようだ。山下君のおじさんも、八丈島で救出されたのであるが、それまで
の家族の心配は言語に絶することであっただろう。
 串本地方では、こんな場合、船霊様に祈るのである。どの船にも船霊様
が祀られており、漁師達や船の安全を守護する神様である。船おろし(進
水式)のまえ、船の帆柱の筒に、女の髪の毛、男女一対の人形、小銭、さ
いころなどをいれて神体とする。これがあれば、邪を静め,災いが駆除さ
れ、海上の不測の厄を逃れられると言う。
 遭難のときには、船霊様を仏壇や神棚に供えて祈るのであるが、科学技
術が発達した現代では、船霊様に頼ることも少なくなってきた。しかし、
昔かたぎの漁師の間では、未だに根強く信仰されている。丸亀市の広島で
、武田 明が聞き取った話によると、
 ある漁師が出漁中に、天候の急変で暴風雨にみまわれ、遭難した。漁師
の妻は、一夜まんじりともせず夫の無事を祈っていたが、うとうとするう
ちに、夫の舟から白い着物を着た女がすべるように海中に入っていくのを
見た。妻は、ひょっとすると船霊様が夫の舟を見棄てたと思い、浜に行く
と舟が打ちあがっていた。夫の姿は見えなかったが、数日後に遺体で発見
された。
とあり、昭和20年代までは信仰されていた。船霊様の信仰は、韓国や中
国の舟山諸島にも、同じ信仰があることから、海民の交流は意外と広いの
かもしれない。



・「サタル神」


 広い海上では、自分の船の位置を正確に知ることは重要である。昭和の
初め、串本の漁師が濃霧のため位置が分からなくなり、串本に帰ったつも
りが四国の室戸岬だった、という話が残っている。現代はGPSがあるか
ら、こんなことはありえないが、以前は特徴のある山形を用いて位置を確
かめた。陸上の山の形を見て、位置を測定するのである。串本では、5海
里(約9キロ)までは潮岬の高塚の森、10海里(18キロ)では重ね山、
20海里(36キロ)では那智のムカデ連山が目印になった。漁師にとって、
命が懸かっているから、これらの目印の山は信仰の対象となった。
高塚の森は、熊野灘、枯れ木灘の各浦の漁師が信仰したし、重ね山は古座
の漁師が、那智の連山は那智勝浦の漁師達が信仰した。海辺の漁師が山の
神社を信仰したのは、根拠があってのことである。このように、沿岸航法
の時代には、陸上の山は重要な目印で守護神だった。
 目印は、山に限らない。岬も同様の役割を果たした。岬を御崎と敬称で
呼ぶのは、信仰の対象だったことを示している。古代では、道案内の神を
サタル神と呼んだ。このサタル神が転音してサルタ神となった。神話に出
てくる猿田彦はサタル神を人格化したものだ。潮岬神社、日の岬神社、室
戸岬、足摺岬、佐田岬などに猿田彦が祀られているのは、海上交通の道案
内の役割を果たす重要な岬だったからである。普通の岬は、単に鼻と呼ば
れた。
 島の名前が、神島というのも同様の役割を果たした。古事記や日本書紀
の国生み神話に大八島が出てくるのは、海上交通における島の役割が重要
だったことを示している。熊野地方では、田辺市の神島、みなべ町の鹿島
、伊勢湾では神島、関東地方では鹿島神宮など、すべて交通の要衝である。
 大和政権が、海民とのかかわりが深かったのは、建国神話や神功皇后伝
説からも明白である。神武天皇は東征の進路に、宇佐、筑紫、安芸、吉備
、難波、熊野を選んでいるが、どれも海民の根拠地である。また、神功皇
后でも、筑紫、住吉、敦賀、和歌山県有田郡産湯海岸、紀伊大島と全て海
民の根拠地である。古代から海民の移動は活発であり、彼等にとって山や
島は神に等しい重要性をもっていた。



・「蛭子信仰」


 漁師が神仏に祈るのは、概して大漁と安全であるが、大漁祈願信仰に蛭
子信仰がある。蛭子は恵比寿ともいい、七福神のひとりでもあるが、漁民
の信仰する蛭子神は海中から拾い上げられた石を神体としている。例えば
、海老網などにかかって拾い上げられた小石が、神体として用いられるの
が一般的である。もちろん、鹿児島県甑島のように、若者が海中に潜って
小石を採取する例もあり、一概に偶然性に頼るわけではない。
 新宮市三輪崎にも、蛭子神が祀られている。鈴島という風光明媚な島で
ある。私もたびたび訪れて祈願しており、願い事を半分は叶えてくださる
良い神様である。たびたび祈願しているうちに奇妙なことに気付いた。蛭
子神社のそばに、陰陽石があるのである。 陰石は洞窟になっており、北
側からのぞけば孔島が見える。東側には、立て神と呼ばれる陽石が配置さ
れている。陰陽相和す形になっており、陰陽信仰の影響が見られる。私が
宝くじや競馬の大穴を狙った時は、ことごとく外れたが、娘の大学合格を
を祈った時はみごと願いが叶った。女性関係の願いは叶えてくれる。もっ
とも、不倫や略奪愛はかえって神罰が下ること間違いなしである。
 高知県の某所でも、「チョロミセ様」信仰がある。蛭子神に祈っても、ご
利益がないときは、神前で女性器を披露すると豊漁になるとされる。蛭子
神も、やはり、男性なのであろう。女性には、弱いのである。



・「海神三神と海民三族」


 宮本 常一先生は瀬戸内の島の生まれで、大阪府で小学校の教諭をして
いた方である。民俗学の研究者として多大の業績をあげたが、海民の研究
に早くから取り組まれた。氏の研究によれば、三種類の海民が、瀬戸内海
にみられるという。(「瀬戸内海文化の系譜」)
 第一は、男女共漁をする海民で、北九州から瀬戸内海に移動してきた海
民である。かれらは宗像三神を信仰し、あわびや魚、海草を採取しながら
移動する定着性の低い海民であった。尼崎、海部などの地名が残っている
のは、かれらの居住地と推定できる。
 第二は、男漁女耕をする海民で、南九州から瀬戸内海に移動してきた海
民である。かれらは大山祇を信仰し、四国側を中心に定着し、後に村上水
軍などの海上の武装勢力を形成した。
 第三は、半農半漁をする定着民で、瀬戸内海に定着していた在来海民で
ある。かれらは、住吉の神を祀り、遠浅で磯漁の条件の良いところに居住
した。貝の採集に優れた技能をもっていたかれらは、あわびの採取、交易、
製塩などに従事し、供御人などに任ぜられて朝廷との関係を結んだ。
 第一の海民については、串本町古座の重ね山神社の祭神が、宗像三神で
ある。延喜式神名帳に載っていないが、紀伊国神名帳には、従四位上滝姫
神と出ており、由緒は古い。漁師にとっては道標の山であり、漁場を確定
するやまたての山であった。宝亀十年(776年)に宗像神社から勧請さ
れたのが、始まりと伝えられている。滝姫神は、多岐津姫神と考えられ、
江戸時代には古座浦鯨方漁師が信仰した。
 第二の海民については、熊野地域にはみられない。第三の海民について
は、延喜式神名帳に海神三座と出ている神が、住吉三神にあたるのではな
いだろうか。住吉三神の所在地であるが、私は串本の潮崎本の宮神社が該
当すると思っている。この神社は笠島遺跡という漁業専業集落遺跡に隣接
している。地形も遠浅で、磯漁の好適地である。この神社は、古くから住
吉三神を祀っており、神功皇后伝説も残っている。潜水漁法を得意とする
海民が定住した場所にふさわしい。
 ここで、宗像三神と住吉三神を比較して、その構造の違いを明らかにし
てみよう。宗像三神は沖ノ島(田心姫)、大島(滾津姫)、宗像大社(市杵嶋
姫)と海北の中道と呼ばれる朝鮮半島航路に沿って配置され、女性神で航
海神の傾向が強い。いわば、水平的な連続性をもっている。その代表的氏
族は宗像の君徳善である。
 これに対して、住吉三神は上筒男、中筒男、下筒男と呼ばれているよう
に男神で、垂直的な連続性をもっている。いかにも、潜水漁法に長じた漁
労神を想起させる。魏志倭人伝の沈没して魚介を採り、ゲイ面文身してい
る倭人の姿に重なるのである。住吉三神を奉じて各地で活動した海民は、
中国の王朝から倭人と呼ばれた海民たちであった。その代表的氏族は津守
の連であり、大和政権に海産物のニエを納める役割を果たした。
 以上、海民集団は漁労に従事するだけでなく、交易、外交、軍事と多様
な役割を果たし、王権の形成に寄与していった。古代王権は、海民の協力
なしに成立できなかった。日本書紀に、海民の活動が活発に描かれている
のは、事実の反映なのである。紀伊国にも、海士郡が置かれたが、有力な
海民が存在し、王権とのかかわりが強力だったのであろう。