・「高野聖」


 「大師は弘法に奪わる」というように、大師といえば弘法をさすと誤解
されるぐらい空海の大師号は有名である。大師は朝廷が宗教家に与えた称
号だから、何人もの大師が存在した。最澄は伝教大師だし、良源は元三大
師である。空海のみが,有名になったのは、弘法伝説の影響だろう。
 熊野地方は、高野山のお膝元だから、弘法伝説に事欠かない。串本町で
も、「橋杭岩をたてさせた」 「杖先で井戸をつくった」 「温泉を発見した」
「お灸の治療法を教えた」等の伝説が、残っている。
 では、このような伝説を広げたのは誰であろうか。真言密教の修行僧や
高野聖が、その担い手であろう。聖は私度僧で、正式の僧侶とはいえない
が、商人として活躍した。夜道怪とも称された。夕方、宿を借ろうと、叫
びながら、村中を彷徨したからである。首尾よく宿が借りられれば、「弘
法伝説」などを吹聴した。しかし、品性に欠ける輩も多く、「高野聖に宿
貸すな、娘盗られて恥かくな。」ともいわれた。すべての高野聖が、その
ような状態とはいえないが、女人禁制の高野山において、妻帯しているも
のがほとんどだった。東別所(金剛峰寺から刈萱堂にかけての地域)が、か
れらの居住区だった。高野山の年貢は多様で、米以外に絹が主力である。
これを笈に入れて、地方に販売する。その収入が、高野山の財政を支えた
のである。学侶や行人だけでは、真言密教は存続出来ない危機的状況だっ
た。高野聖は、真言宗の救世主だった。
 しかし、商人的聖のほかに、宗教者的聖もいた。真別所に居住した聖で
ある。東大寺大仏再建で有名な勧進聖の重源は、平家の落人や鎌倉御家人
、在地武士などから、宗教的な発心に基づく聖を組織した。 熊谷 直実、
佐藤 教清(西行)、平 維盛などが、そうである。かれらは、密厳国土の
真言の教えを密厳浄土に変化させた。この世での極楽建設をあの世での極
楽建設に宗旨替えをしたのである。おかしなもので、それが庶民に受け入
れられ、教団が大きく発展したのだから、宗教は不可思議である。
 覚鑁上人の新義真言宗は、空海の「即身成仏」「密厳国土」を「密厳浄
土」に変更して、末世の時代を乗り切ろうとしたが、守旧派の理解を得ら
れずに追放された。紀ノ川沿いに、根来寺を建立して、高野山に対抗した。
後に、鉄砲集団として猛威を振るうが、最盛期には80万石を誇り、軍事
面で日本史に影響を与えつづけた。分裂がなければ、根来鉄砲集団の活躍
もなく、天下統一も別の形になっていたかも知れない。対立が、歴史を発
展させるのである。



・「弘法伝説」


 私が初めて橋杭の立岩をみたのは、小学一年生の遠足だった。1953
年に田並村立田並小学校に入学した私は、串本町の姫の松原に同級生と遠
足に出かけたのである。串本駅で下車した私たちは、カルガモの行列のご
とくよちよちと歩いたが、橋杭の立岩で休憩した。一同は岩が林立する異
様な風景に驚いた。巨大な岩が一直線に海に向かって伸びているのである。
 「うわあ〜誰がたてたん。」と、担任の稲田先生に聞くと、
 「弘法大師」という偉い人が立てたと、教えてくれた。私たちは弘法大
師という、大工が立てたと思い込んでいたのである。
 紀南観光のバスに乗ると、必ず弘法大師が天邪鬼を使って一夜で大島に
架橋しようとしたが、天邪鬼が鶏の鳴きまねをして中止させたと言う伝説
を紹介してくれる。弘法大師は架橋に失敗したが、1998年に串本大橋
が完成し、大島に車でいけるようになった。弘法大師より、土建国家日本
の技術者のほうが優秀なのかもしれない。空海は満濃池を造ったり土木家
としても有能だったが、昨今の無駄な公共事業のやり放題には顰蹙してい
るだろう。
 串本町では、重ね山神王寺が真言宗の道場であるためか弘法伝説がたく
さん残っている。重ね山には大師の井戸があるし、付近の峰山にも大師の
井戸がある。どちらも岩の割れ目から清水が湧き出し、いかにも弘法伝説
が創作されそうな雰囲気をもっている。旅の僧をもてなしたところ、お礼
に井戸を掘ってしんぜようと杖を突くと、水や温泉が湧き出すといういつ
ものパターンである。
 同じく串本町二色には、大師の灸伝説がある。病に倒れた旅の僧を村人
が親切に看護したところ、病癒えた僧はお礼に万病に効くお灸を教えてし
んぜようと秘伝の灸を教えてくれた。僧が去ったあと、あれは弘法大師で
はないかということになり、このお灸を大師の灸と呼んだ。
 弘法伝説を辿れば、蘇民将来伝説に行き着く。スサノオが旅の老僧の姿
で、諸国を回国した。大金持ちの武塔将来の家を訪ねると、かれは宿泊を
断り、兄の蘇民将来を紹介した。 蘇民将来は貧しかったが、スサノオを
もてなし、親切にしてあげた。スサノオはお礼に札を差出して、これをは
っておけば疱瘡(天然痘)の災厄を免れるといった。しばらくして、天然痘
が流行したが、蘇民将来の家は災厄を免れた。旅人に親切にしておけば、
功徳があるという伝説である。道みちの朋輩(ともがら)たちが、一夜の宿
を求めて、広めたようである。漂泊の生活のつらさがにじみ出て哀れを誘
う話である。