・「神武と呼ばれた渡来人とヤタガラス」


 熊野地方が歴史の表舞台に現れたのは、神武東征神話が最初である。日
本書紀巻三、神武天皇編に以下のように記述されている。

・熊野の神邑に至り、天の磐盾に登った。
・熊野の荒坂の津に着いて、丹敷戸畔という女族を誅した。
・熊野に高倉下という人がいた。高倉下は武甕雷神から、ふつのみたま
 という剣を授けられ、それを神武に奉げた。
・山中で迷っていると、天照大神がヤタガラスを遣わし、道案内をさせ
た。ヤタガラスは、日臣命を大和の宇陀に案内した。

 ここで、注目すべきは熊野には三つの勢力が存在したことである。
 ひとつめは、丹敷戸畔を中心とした土蜘蛛と呼ばれた先住民である。
土蜘蛛は東征軍に服従せず、神武に敵対した。けっきょく滅ぼされたの
だから、中心勢力にはなりえなかったが、縄文時代からの狩猟・漁労民
族だったのではないか、と推測される。古事記に大きな熊が出現して、
天皇軍を失神させたとある。熊をトーテムとする先住民、例えばアイヌ
民族のような先住民を想定しても間違いではあるまい。手足が長く背が
低い身体的特徴からもアイヌ民族が土蜘蛛に近い。
 ふたつめは、高倉下を中心とした物部系の渡来民である。物部氏は、
ニギハヤヒを祖先とするが、日本書紀では初代の支配者と記述されてい
る。ニギハヤヒの支配権を神武が奪い、二代目の支配者となった。政治
権力が物部系から神武系に移動した事実を表現したのが、神武東征神話
の核心である。高倉下が奉げたふつのみたまは物部氏の宝の剣で、石上
神宮に納められている。それを差し出したのだから、降伏したのである。
物部氏が大和政権の大連として、軍事面の支配を振るったことから重用
を前提としての降伏だったのだろう。高倉下の子孫の大阿刀足尼が、熊
野の国造として熊野地方を支配したことから考えても、高倉下は熊野地
方の支配者だったといえる。新宮市熊野川町の赤木川流域に高倉神社が
点在しているが、その神体は丸い岩である。私は、高倉下は鉱山開発と
金属鋳造に関わる氏族だったと考えている。
 みっつめは、ヤタガラスであるが、私は大烏をトーテムとした山民を
想定している。ヤタガラスは日臣命、すなわち大伴氏との関係が深い勢
力である。 山で狩猟生活をしていた十津川付近の山民が、その弓矢の
能力と偵察能力を買われて、大伴氏の軍事力として支配下に入ったので
はないか。大伴氏の支配が弱まった後は、熊野三党として熊野三山の支
配下に入った。鈴木、宇井、榎本の三党で、ヤタガラスの三本足は、熊
野三党をあらわしているといわれている。ヤタガラスは、中世には熊野
速玉の烏文字に描かれ、平成にはサッカーの日本代表のシンボルマーク
になって、全国的に有名になった。私も鈴木姓であるから、ヤタガラス
の子孫かもしれない。
 以上のような先住民に対して、朝鮮半島から渡来してきた渡来人の存
在が、神武伝説の原型になったと考えられる。では、だれが、いつ渡来
したのかは、後に述べたい。



・「離婚騒動を招いた御綱柏」


 熊野が歴史の舞台に出た二幕めは、日本書紀巻十一、仁徳天皇編であ
る。
 仁徳天皇の皇后、磐の姫は紀の国に行幸し、熊野岬に到着した。三つ柏
をとって、帰った。その間に、天皇は八田姫を召して大宮の中に入れら
れた。それを聞いた皇后は、三つ柏を海に投げ入れた。そして、山城に
帰り、宮を造って住んだ。天皇は再三、帰るように促したが、帰らず、
八田姫が皇后に立った。
 磐の姫が採りに行った三つ柏とは、どんな植物だろうか。諸説あるが、
串本町ではマルバチシャを指すと主張されている。マルバチシャは、長
さ15センチの楕円形の葉形をしている喬木で、熊野地方に多く見られ
る。
 これの用途であるが、「豊の明かり」という宮中の大宴会に用いられ
た。「豊の明かり」というのは、天皇が主催して支配下の豪族を招いて
行う重要行事である。招かれた豪族は、各豪族に継承された聖なる火を
携えて参列する。たくさんの豪族が参列するので「豊の明かり」と呼ぶ。
 この宴会の食物を盛りつけるカワラケのなかに、マルバチシャを三枚
敷き、御綱柏と呼んだのではないか。食べ物の下に葉を敷くのは、衛生
面のほかに精霊の長寿を分け与えて貰うアニミズム信仰によると思われ
る。 串本地方では、ボンガシワを敷いて押し寿司をつくったり、イビツ
の葉で餅を包んだりするが、同じ趣旨と考えられる。
 皇后が準備に忙殺されているとき、天皇が不倫していたのであるから
皇后の怒りが頂点に達したのも無理も無い。別居、離婚と現代の芸能人
のようなプロセスを辿り、両者は破局した。「豊の明かり」は中止され、
三つ柏は不吉を呼ぶ植物として敬遠された。私ごとで恐縮だが、わたし
の家紋は三つ柏である。幸いにも、仁徳天皇のようになっていないので、
三つ柏の呪いとは無縁である。



・「永興禅師と髑髏の舌」


 奈良時代後期になると、仏教界の堕落が進み、それに反発した青年僧
のなかには、山林で修行する人もでてきた。かれらの修行の場所として
選ばれたのが、熊野の山林だった。奈良興福寺の僧永興もその一人で、
海辺の村で人々を教導し、呪文を唱え病気を治し、南菩薩と敬われた。
 この永興を一人の山林修行者が訪ねてきた。この僧は法華経の行者で
、持ち物は法華経一部と水瓶一口、縄椅子一足という簡素なものである
。一年余り、永興のもとで修行すると、行者は山林修行のため、熊野川
上流に出発した。
 二年後、村人達が熊野川上流で船材を切っていたところ、法華経を読
む声が聞こえる。探してみても姿が見えない。 半年後、また聞こえてく
るので、永興に連絡しかれが探したところ、崖から宙づりになっている
死体を発見した。崖のうえには、水瓶が置かれていたので、永興のもと
で修行した行者と確認できた。ところが、更に法華経が聞こえるので、
永興が再び訪ねると、行者は髑髏になり、舌だけが生きていて法華経を
唱えていたと言う。
 まったく、信じられない話だが、行者は捨身行を行っていたのであり、
修験道が実践されていたことがわかる。以上は、「日本霊異記」に記さ
れている説話であるが、この頃から、熊野地方が山林修行の聖地化して
いたことが明らかだ。熊野修験道が始められていたのである。
 では、行者が修行した熊野川上流の行場はどこであろうか。私は、楊
枝川上流の布引の滝と推定している。その根拠は、行者が伊勢に行くと
言ったこと、船材が豊富な場所であったこと、現在でも修験道の行場と
して行が行われていること、人跡稀な秘境であること、100メートル
を越す巨大な崖があること、である。布引の滝は、三重県熊野市紀和町
にあり、「日本霊異記」の記述によくあてはまっている。
 いずれにしても、熊野の山林がアジール(宗教的聖地)として認識され
ていたことが分かる。後に、熊野信仰が大規模に展開される素地が築か
れていたのである。



・「狂信上皇と熊野雑事」


 平安時代は末法思想が蔓延し、仏法に救済を求めた。上は上皇から下
は賎民まで、熊野権現にすがったのである。上皇の熊野詣でを熊野御幸
と呼ぶが、これを34回も繰り返した狂信者が後白河上皇である。
 後白河上皇は、1159年から1178年、1181年から1192
年と合計30年に渡って在位したが、武家政権との攻めぎあいの中で、
権謀術数を繰り返したため、ライバルの源 頼朝に「日本一の大天狗」
と揶揄された。複雑怪奇な性格で、同母兄の土御門上皇を阿波に幽閉し、
悶死させたり、今様に凝って名人とあらば身分を問わず師弟の礼をとり、
喉がつぶれるまで今様を謡い込んだ。世間はあきれて「風流廃れ皇子」
と呼びならわしたが、当人は平気であった。
 このような性格の人物が宗教に凝ればどうなるかの見本が34回の熊
野御幸である。御幸は200人から300人の女房、貴族、北面の武士、
雑人を伴ったから、これに掛る費用はすさまじく、荘園の農民が負担さ
せられた。これを熊野雑事と呼んだ。紀州は上皇の荘園が多く、後幸の
たびに雑事を負担させられ、大いに迷惑した。まさに、「上の楽しみは
下の迷惑」である。
 では、雑事の中味がどのようなものであったかを見てみよう。1147年
に鳥羽法皇が命じた雑事は以下のごとくである。


 紀伊の国神野・真国荘(美里町)への雑事(「熊野古道」小山 靖憲)

  菓子(木の実)15合      御菜10合     味煎1升
  酒5升             酢3升       味噌1升
  塩5升             油6合       大豆5升

  [以上食料負担]


  土器80口             折敷10枚     炭10籠
  薪50束            打松10把   続松100把

  [以上燃料・食器負担]


  人夫1人


 以上を湯浅の宿泊所まで届けるのである。往復とも雑事がかかるので
あるから、負担は倍になる。これを34回繰り返したのだから、たまっ
たものではない。後白河上皇の熊野御幸が、甚大な被害を熊野の荘民に
与えたことをお分かり願えると思うがいかがであろうか。
 これほどの犠牲を払って実施した御幸は、上皇の願いを実現したので
あろうか。幕府政権の打倒はならず、自らは引退させられ政治の実権は奪
われた。御幸は「大いなる徒労」に終わった。負担を実施させられた荘民
は上皇の狂信につきあわされ「大いなる徒労」を味わったのである。



・「伊勢に七度 熊野に三度」


 江戸時代は、幕府の地域定住化政策の結果、庶民の旅は不自由であっ
た。しかし、抜け道はあるもので宗教的な参詣は認められた。伊勢講や
大山講、富士講などに所属した講中は、年中行事として参詣を組織した
。和歌山市の六十谷の伊勢講は若衆の成人のイニシエーション(通過儀
礼)として機能していた。伊勢参りを終えれば、大人の仲間入りが出来
るのである。
 農閑期になると、御師に引率された一行は伊勢に向かう。伊勢参宮を
果たすと、遊郭のある古市で垢流しをして遊んだあと、熊野に向かう。
ここからは熊野御師が引率する。伊勢路たどり、新宮、那智、本宮から
高野山に抜けるのが定番であった。「伊勢にななたび 熊野にみたび 
どちら欠けても片参り」と呼ばれた。今だったら、ツーリストが案内す
るが、当時は御師の活躍が大きかった。御師達が信者(檀那)を組織し、
熊野講を維持したのである。これがなければ、「蟻の熊野詣で」と呼ぶ
盛況にはならなかった。
 速玉大社の境内には、陸奥の国南部八戸領久慈八日町の住人、吉田 
金右衛門が建立した「奉八度参詣」の記念碑がある。宝永五年(1707年)
とあるから、江戸時代中期の参詣であろうが、八度というのは尋常では
ない。多分、海路を利用したのであろうが、熊野御師たちの活動が東北
地方に及んでいたことがしられる。
 では、なぜ熊野詣でが盛んになったのであろうか。熊野権現の霊感あ
らかたなる所以であるというのが公式見解であるが、事実はそう単純で
はない。確かに、熊野権現に願かけ成就のお礼参りの側面があった。し
かし、熊野三山が金融業を行っていたことは明白であり、借り手は貸し
手の要請は断れない。「蟻の熊野詣で」の現象も、裏面からみれば、熊
野三山の貸付の隆盛と把握できる。単純に宗教的情熱によるとはいえな
い。
 庶民にとって、「伊勢にななたび 熊野にやたび お礼参りはしんど
やな」だったのである。