モーゼはイスラエルの民を率いてエジプトを脱出して故郷に帰ったが、
熊野の民は故郷を捨てて、異郷に生きざるをえなかった。それは、山地が
大部分を占める地形に起因するが、熊野人の進取の気性も大いに預かって
いる。



・「絵解きした女性たち」


 熊野比丘尼については、根井 浄氏と山本 殖生氏の研究が公刊され、
実態が明らかになった。両氏の編著「熊野比丘尼を読み解く」によれば、
熊野比丘尼が資料に登場するのは、戦国時代であるという。熊野比丘尼が
戦国武将毛利元就に勧進の保証を要望したのが、初見である。元就が許可
を与えたので、布教が許されたのであるが、中国地方に進出していること
が注目される。  比丘尼が各地に進出し布教を始めたのは、熊野三山の荘
園が侵略され年貢が徴収できなくなったことが、最大の理由である。収入
の道を断たれた三山側は、新たな財源を開拓する必要に迫られた。その一
つが比丘尼と御師による布教であった。比丘尼は普通は独身を強制される
が、熊野比丘尼は御師と夫婦になって行動した。子供が生まれると小比丘尼
として、勧進に参加した。いわば、家族ぐるみの布教だった。
 では、熊野比丘尼はどこで活動したのか。江戸や大阪、京都、名古屋の
大都市のほかに、佐渡の金山のある越後、三河、美濃、筑前博多、備前下笠
井、志摩越賀など富裕な穀倉地帯や交通の要衝に定着した。要するに、人
と金の集まる場所で布教したのである。
 このような比丘尼の活動も時代が進むにつれ宗教的側面が後退し、世俗
的側面が露になった。浅井 了意は「東海道名所記」で熊野比丘尼を以下の
ように記述している。

 熊野比丘尼中に声良く歌をうたいける尼のありて、うたふて勧進しけり。
 また、熊野の絵となづけて、絵ときをいたし、ぶつぽうをすすめたりけ
る也。(中略)
 みどりのまゆほそく、うすげしやうし、その行状はお山風になり、ひた
すら傾城・白びやうしになりたり。

 宗教家というより、芸能人、遊女としての活動が中心となった。それの
方が手っ取り早く金が稼げるからである。「貧すれば鈍する」と言うが、
経済の法則に宗教的熱意は勝てなかった。「あわれなることかな」という
のが、当時の識者の感慨であった。まさに「諸行無常」の響きあり、であ
る。



・「熊野の神に仕えた神人」


 神人というのは、神社に隷属して雑務をこなし、神社の経営を成り立た
せた人々をいう。熊野速玉大社の場合は、鈴木・榎本・宇井の三氏がその
役割を果たした。神人には免税と通行自由の特権が与えられていたため、
商業や運輸関係の仕事に従事することが多かった。
 熊野三山への上皇、貴族、武士たちの信仰は、荘園の寄贈という形で隆
盛に向かった。東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州各地に点在し
た荘園は実に、133箇所に及ぶ。この荘園からの年貢の徴収や輸送には
神人があたった。
 例えば、1488年に品川沖に停泊していた熊野三山の商船には、米が
数千石積まれており、暴風雨のため流失している。数千石といえば、じつに
750トンの米にあたるが、1キロ300円としても2250万円の米を
商っていたことになる。この商いの中心人物の鈴木 道胤と榎本 道珠は
、借上として金融業に携わり、大成功を納めている。二人は、他国者にも
かかわらず、品川妙国寺の外護者になっている。
 余談だが、熊野神人の子孫から二名の首相がでている。鈴木 貫太郎と
鈴木 善幸である。どちらも、短期に終わったが、困難な時局の収拾にあ
たった名宰相であった。貫太郎は終戦内閣を組織し、陸軍の抵抗に合いな
がらも終戦を実現した。善幸は「暗愚の宰相」と揶揄されたが、日米同盟
は軍事同盟にあらずと言い切り、軍拡路線に抵抗した。平和を希求した二
人の宰相をもっと評価すべきと思うがいかがだろうか。
 経済人の方では、「明治の紀文」と呼ばれた鈴木 久五郎があげられる。
鈴木銀行頭取、初代東京証券取引所理事長として、明治の経済界をリード
したが、日露戦争の国債暴落で全財産を失った。国家の陰謀の犠牲となっ
たのであるが、政商の末路をよく表している。
 このように、中世の熊野三山は東海、瀬戸内、南海、関東、九州、東北
に神人を派遣して、商業、運輸、金融に当たらせた。宗教組織というより
企業組織が実態であり、総合商社のような役割を果たした。神人は商社マ
ンとして、経済戦争の最前線にたったのである。現代の企業戦士に重ねあ
わせると、なにやら哀れである。



・「観音浄土への旅立ち」


 神人が経済活動で出船したのに対し、宗教活動として出船した人々もい
た。渡海上人たちである。補堕落渡海は、井上 靖氏の名作「補堕落渡海
記」によって、有名になった。熊野参詣曼荼羅図に、大鳥居の下に佇む平
維盛が描かれている。維盛の渡海は「平家物語」による脚色であるが、初
回の慶竜上人(868年)以来、19人が渡海したといわれる。補堕落という
のは観音浄土を意味し、そこで往生するのが渡海の目的である。
 もちろん、熊野だけでなく四国の足摺岬、室戸岬、九州の熊本などでも
渡海が実施され、なかには水死せず沖縄や奄美大島に漂着した渡海僧もい
た。このように、生き残ったり渡海を渋ったりする僧が出てくると、事態
は混乱する。補堕落で往生しないと地獄に落ちることになるので、渡海信
仰そのものが成立しなくなる。江戸時代の金光坊は、不幸にも那智に漂着
し、村人に撲殺された。悲惨なことであるが、宗教はもともと仮想の世界
であるから、それが壊されると困るのである。金光坊は宗教的仮想の犠牲
者であった。熊野地方でとれる太刀魚は、金光坊の生まれ変わりといわれ
、村人は太刀魚がとれると祟りを恐れて逃がすという。金光坊事件以降の
渡海は、死者を渡海船に載せるように変更したが、時勢に合わした処置だ
った。
 那智の補堕洛山寺の裏山のなかに、歴代の渡海上人の墓がある。苔むし
た古い墓であるが、見学に訪れる観光客もめったにいない。いかにも侘し
い光景だが、渡海上人の墓としてはふさわしい。自ら死を求めた修行僧た
ちは死後のことは無関係なのである。「空」の空間として、それらは存在
しているのである。



・「アメリカ村の移民たち」


 日高郡三尾地区は「アメリカ村」と呼ばれているが、正しくは[カナダ
村」である。串本町の田並地区は正真正銘のアメリカ村である。一部はカ
ナダへ移住したが、大半はアメリカに行った。
 私の母の家系もアメリカ移民であった。昭和の初めの金融恐慌は、熊野
地方に大打撃を与えた。熊野共同銀行や大同銀行が倒産し、銀行から融資
を受けていた商人たちも連鎖倒産したのである。私の祖父辻内 善右衛門
も家業の廻船業が傾き、南洋に出稼ぎにいった。インドネシアセラム島の
ドボで南洋興発株式会社の製材業に従事した。祖父の兄弟姉妹は、アメリ
カカルフォルニア州で農業労働者やハワイで漁師になった。異郷に行くこ
とには、あまり抵抗がなかった。家業にもよるが、進取の気性にも恵まれ
ていたのが理由である。
 さて、アメリカカルフォルニア州インペリアルバレーの農場に雇われた
大叔母の青沼 とくは、白人農場主にこき使われた。休憩は昼休みの1時
間のみというひどさで一日14時間労働である。低賃金長時間労働である
が、労働条件の改善を要求しても、ユニオンをつくってないので応じても
らえなかったと、いう。「ユニオンが大事」というのが、口癖だった。と
くと夫養蔵は、長期間の「低賃金長時間」労働に耐え、小金を貯めて無事
に帰郷した。円高ドル安の為替差益は、とく夫婦に家屋敷、田畑を購入さ
せ生活の基盤を形成させた。
 ハワイに行った辻内 栄太郎はマグロ、カツオ漁船の漁師をして生計を
支え、2男2女を育てたが、忘れもしない1941年12月6日に漁労長
から下船を通告された。栄太郎は、家族5人を抱えて今後の生活をどうす
るか途方にくれながら出船を見送った。あくる日は、12月7日である。日
本では、12月8日といえば、日本軍の真珠湾攻撃の日であった。出港し
た漁船は日本の戦闘機に攻撃され、多数の死者を出して帰港した。機関銃
弾で穴だらけになった漁船を見て、漁労長に感謝したそうである。「禍福
はあざなえる縄のごとし」というが、下船命令がなければ、命はなくなっ
ていた。戦後になって、アメリカから援助物資を送っていただき、大いに
助かったが、下船命令の結果であった。私たち親類一同も漁労長に感謝し
なくてはならない。終戦後の悲惨な生活をきりぬけられたのだから……。
 母愛子の弟、勝郎も今ハワイに住んでいる。勝郎は東京のてんぷらやで
板前をしていたが、アメリカ行きの話があったとき、すぐに応募した。こ
のあたり、進取の気性を発揮したというべきであろう。幸い選ばれた勝郎
は、アメリカのラスベガスに渡り、ホテルの日本料理店で働いた。お金を
貯めて、ハワイに店を出し、成功した。今は悠々自適の生活を送ってい
る。私も時々、海外生活をしたくなるが、これも血筋だろうか。



・「木曜島とは水続き」


 田並が「アメリカ村」なら、潮岬は「豪州村」である。岬節に、
   4000マイルの木曜島も潮岬と水続き
 とあるように、潮岬を南下してオーストラリアの北端のヨーク岬に至る
と、めざす木曜島がある。周囲4キロ余りの小島で、なんの特色も無いし
ょうもない島であるが、貝ボタンの材料になる白蝶貝が棲息していた。
貝ボタンは高級品で、欧米では高価な値段がついた。それを採取するには
優秀な潜水夫が必要だが、危険なためなり手がなかった。宝の山を目前に
して、切歯扼腕していたオーストラリア人は潮岬の潜水夫に注目した。
 小川 平氏の著書によれば、潮岬の男達がオーストラリアへ移民したの
は、幕末から明治初年のことであるという。名著「アラフラ海の真珠」に、
古老からの聞き書きとして、以下の話が記載されている。

    「潮岬の浪の浦から伝馬にのって、沖の黒船に、異人に連れられて
    いった」
   「灯台をつくりにきたイギリス人が、豪州に貝とりにつれていった」
   「幕末の頃、神戸の異人館に奉公していた人が、イギリス人につれら
    れて豪州へいった。」

 古老たちが亡くなった今、事実の確かめようがないが、漁業史の大家で
ある羽原 又吉氏の「漂流民」によれば、串本漁協所有の史料にその事実
が記載されているのをみたという。原史料は昭和南海地震で流失し、現
存していないので、今となっては確かめようが無い。
 しかし、串本地方に異国船が接近したのは事実であるし、明治11年
からの灯台石造化に伴うイギリス人技師との接触などから、そのような
話が残ったのであろう。異人館奉公も盛んであったから、海外渡航の話
がでたのかもしれない。話があっても、長い鎖国で交流を禁じられてい
た庶民が応じるのは尋常ではない。生活の貧しさだけでは、説明できな
い気性を感じる。
 最初の渡航者が帰国して、現地報告をすると潮岬に渡航ブームが巻き起
こった。一攫千金をめざした若者が次々と渡航した。私の本家の鈴木 
虎吉もその一人である。虎吉が渡航したのは明治16年(1883年)である。
 名前の通り、剛毅な性格の虎吉はダイバーとして優秀な成績をあげて、
オーストラリア財閥のバンスフィリップ社と借船契約を結び、巨富を得
た。労働者より使用者の道を選んだのである。一財産築いた虎吉は、故郷
に錦を飾るべく帰国の途についたが、長崎の丸山で総揚げし、おいらん
を落籍すなど、金を湯水のごとく使った。落籍したおいらんを妻にして、
帰郷した。その生活は豪奢を極め、風呂は牛乳風呂、犬の餌も白米、レ
ンガ作りの御殿に住むといったありさまで、私の父八千穂は歳暮をもっ
て本家に行くと、自分の家の麦飯と違って米をくっている犬をうらやま
しく思ったそうである。「本家の犬になりたい」といって、叱責された
と語っていた。
 さしもの豪勢を誇った虎吉も1930年の世界恐慌に勝てず、全財産を預
金していた銀行が倒産し、無一文になった。栄華は廻る世の習いという
が頂点からの没落も早かった。晩年はわずかに残った土地にみかんを植
えて生活したという。このように虎吉の一生は、波乱万丈であったが、
明治時代の岬人の一典型として紹介した。虎吉などは、まだ成功したほ
うで、たいがいは、「洋服姿で帰ってきたが、おっと忘れた千両箱」が
実態だった。
 千両箱をかついで帰っただけでも、虎吉は成功者といえよう。