宮本 誼一先生は、「忘れられた熊野」を著し、熊野地方の矢倉信仰を
紹介した。氏の提起によって、熊野地方に石神信仰が古代から存在するこ
とが明らかになった。宮本先生は,串本高校で私のクラスの副担任をされ
た方である。「鈴木君、矢倉信仰を追究してみたら。」といって、資料を
くださった。生来おっちょこちょいの私は、気軽に引き受けたのであるが、
やってみて大変なことだと感じた。史料がないのである。また、対象地域
も散在しており、跡を辿るだけでも苦労であった。歴史学的方法では追究
は無理で、宗教民俗学的な方法によらねばならず、自分のもっとも苦手な
分野である。和歌森 太郎氏、宮家 準氏、五来 重氏、谷川 健一氏、
柳田 国男氏、安井 良三氏などの研究成果に導かれながら、矢倉信仰を
まとめてみた。もちろん、完成されたものではないので中間報告として、
理解していただきたい。



・「矢倉信仰」


 矢倉というのは、一般的には城門や城壁に設けられた高い建物を指す。
展望や見張り用の高い建物の意味であるが、他にも鎌倉では洞窟を矢倉と
呼んでいる。つまり、高さを表す意味だけでは,無いのである。
 矢倉の用例として、地名や氏名に用いられている。古座川の支流の小森
川では戸矢倉山があるし、矢倉さんという氏名も串本にある。矢倉という
のは、熊野では高い岩壁を指すことが多いようだ。矢倉と類似した言葉に
大倉というのがあるが、矢倉同様、岩壁を意味している。
 この矢倉や大倉が、なぜ信仰の対象になったのか。それには、弥生時代
の日本人の信仰観に起因する。弥生時代には神は天にあり、各地の甘南備
山に天下るとされていた。その時の依り代となるのが、岩峰や岩壁である。
天下った神々は水源を辿り、川から田畑に入り、農作物の穀霊となり、人
間生活を豊かにする。そして、秋の収穫を終えると、山に帰り天に昇る。
神々の神意は、様々の自然現象によって示される。雨風や雷、寒暖の気候
変動が、神意を示すことになり、それを解読するのがシャーマンの役割で
あった。邪馬台国の卑弥呼を筆頭とするシャーマンたちは、各村々におり、
神意を村人に伝えたのである。
 そのような信仰を史料的側面から辿るには、最古の歴史書「日本書紀」
に求めるより、方法が無い。「古事記」を最古の歴史書として、教科書に記
載しているが、大 安麻呂の主張を鵜呑みにしているだけであり、信憑性
が薄い。「日本書紀」神話編に、八百万の神が紹介されているが、その中
に、クラヤマツミの神がある。クラヤマというのは、岩山のことであり、
雨が降れば滝になる。滝は各地方の水源となるから、神格化されやすい。
 私は、クラヤマが逆転してヤマクラになり、山倉が省音されてヤグラと
なり、矢倉の漢字が宛てられたのであろう、考えている。このような逆転
した読み方の例は古代には多々あり、渡来人系のオミアシ神社はアチノオ
ミを祀っているが、オミとアチの語順を逆転させている。このように、矢
倉が山倉から省音されたものであることを、お分かりいただけたと思うが
いかがであろうか。
 宮本 誼一氏は、矢倉信仰の特徴を以下のように要約している。

・ 自然物を神体とし、丸石を神座とする。基本的に社殿をもたない
・ 海人系の祭りで、太陽を招くことを主眼とする
・ 海岸及び川の中流や支流に多い

 私は、矢倉信仰を弥生時代から続く生産・出産の霊力を取り込む性器信
仰と考えている。その根拠は、クラヤマツミの神が性器を連想させるから
である。古事記火神被殺の条に、イザナギがカグツチを殺害し、陰部から
生まれでた神がクラヤマツミであるという。陰部は性器を表すから、男性
器と女性器の象徴がクラヤマツミつまり矢倉神なのだ。山、滝、岩、岩礁、
樹木、泉などは、性器の象徴で、それを神体化したのが矢倉信仰なのであ
る。以上は私の仮説であるが、多くのご教示をお待ちしている。
では、矢倉信仰の分布はどうなっているのか、代表的なものを検証して
みよう。東熊野では、三重県熊野市の花の窟神社、和歌山県新宮市神倉山
神社、同じく那智勝浦町飛竜神社、同じく串本町河内神社があげられる。
それぞれ、岩壁、大岩、大滝、島がご神体である。岩壁はイザナミノミコ
ト、大岩はアマテラスオオミカミ、大滝はオオクニヌシノミコト、島はス
サノオノミコトに比定されているが、後世のこじつけであることはいうま
でもない。日本書紀が編纂されるころに、創作されたのであり、もともと
は、矢倉、神倉、那智、河内と呼称されていた。しかし、これらの神社は
伝統的祭祀が今でも残っており、花の窟はお綱渡し、神倉はお灯祭り、那
智は扇祭り、河内は御船祭りとして、盛大に行われている。
 大辺路から順に、各地に残っている矢倉信仰を紹介してみる。


   大辺路の矢倉神社

・ 日生矢倉明神森 すさみ町太間川 社なく樹木を神体とする
・ 狼森      同    上  木の根を神体とする
・ 若宮      同    上  木を神体とする 社なし
・ 矢倉明神森   すさみ町口和深 木を神体とする 社なし
・ 猪神碑     同    上  石を神体とする 社なし
・ 本の宮森    すさみ町和深川 石を神体とする 社なし
・ 明神森     串本町東雨   木を神体とする 社なし
・ 木葉神森    串本町二色   木を神体とする 社なし
・ 矢倉神社    串本町串本   石と泉を神体とする
・ 二河諏訪神社  那智勝浦町二河 石を神体とする 社なし
・ 高津気神社   同   高津気 岩を神体とする
・ 飛龍神社    同   那智山 滝を神体とする
・ 滝姫神社    串本町 神野川 同     上
・ 浅間山神社   同    大島 同     上
・ 高塚の森    同    潮岬 同     上
・ 矢倉明神社   新宮市馬町   岩を神体とする
・ 花の窟神社   熊野市  有馬 同     上 

   日置川流域の矢倉神社

    ・矢倉明神社    白浜町玉伝   木を神体とする 社なし
    ・日生大明神森   同  小川   同     上
    ・地主大明神森   同   上   同     上
    ・矢倉大明神森   同   上   同     上
    ・大宝天王森    同   上   同     上
    ・地主神森     同 矢野口   同     上
    ・槻宮森      同   上   同     上
    ・矢倉明神森    同  矢谷   滝を神体とする 社なし
    ・大滝神社     同 市鹿野   同     上
    ・矢倉明神社    同  古谷   山神を神体とする 社なし
    ・矢倉明神     同 中野俣   木を神体とする

   古座川流域

    ・神殿明神森    古座川町高川原 木を神体とする
    ・河内明神     同   宇津木 川中の島を神体とする
     ・明神森      同   月の瀬 木を神体とする
    ・矢倉明神     同    立合 岩を神体とする
    ・矢倉明神森    同     峰 木を神体とする
    ・矢倉明神森    同    相瀬 社なし
    ・宝大神森     同    洞尾 空神を祀る
    ・嶽の森      同    同  岩を神体とする
    ・矢倉明神社    同    大川 記述なし
    ・矢倉明神社    同   三尾川 同
    ・矢倉明神森    同   井野谷 木を神体とする
    ・春日社      同    小川 滝を神体とする
    ・春日社      同    大桑 同   上

   太田川流域

    ・深瀬明神森    那智勝浦町口色川 岸壁を祀る
    ・王子権現社    同    樫原 木を神体とする

   赤木川流域

    ・高倉神社     新宮市熊野川町
              赤木      石を神体とする
    ・高倉神社     同    鎌塚 同   上


 以上のごとく、矢倉神社は熊野地方の海岸、川の流域に広く分布している
が、熊野の自然そのものが神として信仰されていたことが分かる。のちに熊
野信仰として、大規模に展開される信仰の基層が、矢倉信仰である。三重県
にも矢倉神社があるが、未調査なのでまたの機会に譲りたい。
 矢倉信仰が社殿を持たないことを繰り返し述べたが、祭祀形態がどのよう
なものだったかは,わからない。宮本氏は海人系の祭りで、太陽を招くこと
に主眼をおいたと述べている。(「忘れられた熊野」p2~3)
祀り場の様式に岩肌の一部を取り入れ、それを神体として「しめ縄」を張り、
その前に神坐となる岩坐をおく様式が同じである。
 矢倉祭りは旧霜月24日(新暦では年末)に実施するが,これは冬至を一
陽来復の日、春への転回として、おこなったのであろう。
   確かに、古座川町峰地区では、冬至の日に太師講を開いて焚火をするが、
一陽来復を願ってのことであり、那智の扇祭りや大島の水門祭りのおやまの
扇も太陽を象徴するといわれている。矢倉祭りが招陽と一陽来復を願う祭り
であることは、了解していただけると思う。
 では、このような信仰をもたらした海人はどこからきたのかが次の課題と
なる。宮本氏は沖縄の御嶽信仰との類似を唱え、黒潮を遡ることを示唆して
おられる。また、安井 良三博士は朝鮮や南中国の迎日湾の地名の所在に言
及され、渡来人の信仰を想定している。
 わたしは、対馬の天道信仰が類似性が多いと考える。天道信仰とは何かと
いえば、太陽祭祀を中心にした自然信仰であり、そのシャーマンが天童法師
である。最初に、提起したのは平泉 澄博士である。博士は「中世に於ける
社寺と社会の関係」を著して、天道信仰の遺跡について、次のように述べて
いる。  「天道法師の入定地は、豆酘郡の卒土山の中腹地にある。その土地
を計測してみるに、縦横八町ばかり、その区域内に平石を積み上げ、九重の
宝塔をなしている。」というもの、すなわちこれである。対馬が位置朝鮮に
近きこというまでもない。まったく朝鮮と同じ風俗であったと察する点が多
いことである。ここにおいてソトを解するに古代朝鮮語とするに、理由があ
るといわざるを得ない。
 以上のように、対馬や朝鮮半島に太陽祭祀を行う自然信仰があり、その聖
域はソト(卒土)と呼ばれていたことがわかる。ソト信仰は中国でも注目さ
れるほど、特異であったようで、「魏志・東夷伝・韓人」の条に、ソトにつ
いて次のように説明している。

 韓に鬼神を信じて、村々に一人をたてて天神をまつる風習がある。そのも
のを天君と名付ける。また諸国に、「蘇塗」をなす村がある。大木をたてて、
そこに鈴と太鼓を掛け、鬼神をよびよせるのである。この「蘇塗」の内部に、
さまざまな逃亡者が入り込むと、「蘇塗」の人々は保護する。旗竿をたて、
その標識とする。

 つまり、「蘇塗」はアジール(聖域)の役割をはたしているのである。わ
たしは矢倉信仰も同様であったと考えている。中世日本において,寺社はア
ジール役割を果たしたが、それは「蘇塗」信仰からきているのである。矢倉
信仰の代表的なものに花の窟神社がある。その祭祀に「蘇塗」信仰が、残っ
ている。日本書紀巻一神代上に、次の記述がある。
 イザナミノミコトが火の神を生む時に、体を焼かれてお亡くなりになった
。それで、紀伊の国の熊野の有馬に葬った。とちの人がこの神をお祭りする
には、花のときは花をもってまつり、太鼓・笛・旗をもって歌舞して祭る。

安井 良三氏は、矢倉信仰を南中国・朝鮮からの渡来と示唆されたが、わた
しはアジールを伴った「蘇塗」信仰が日本の風土に適応して定着したものと
考えている。
 では、韓人が信仰した鬼神の正体は、なんだろうか。魏志東夷伝倭人の条
に、邪馬台国卑弥呼の説明に、

 鬼道につかえ、よく衆をまどわす

 とあり、鬼道はあやしい術、魔術、妖術の意味で用いられている。人道に
対立する用語であるから、鬼道は死者の霊魂を降下させる術なのである。し
たがって、鬼神とは死者の霊魂をあらわす神なのだ。それを降下させる霊媒
師が卑弥呼なのである。卑弥呼を固有名詞と考えるから、歴史上の人物に比
定したくなるのであるが、卑弥呼は日巫女であり普通名詞と考えたい。太陽
祭祀をおこなう巫女が、シャーマンとなったのである。朝鮮半島のシャーマ
ンである天童法師が男性なのにたいして、大霊女が女性なのが異なる。倭人
社会が母系制的風習が強かったからであろう。
 「蘇塗」信仰に近いものに、韓国の花歌巫儀式がある。これは、造花を飾
り、死者の霊が花の常世にいけるように祈る儀式である。ムダン(巫女)が祈
る時、鉦太鼓をならし、ムーダンが神がかりして死者の言葉を宣託する形式
が、鬼道を髣髴させる。 
かくして、朝鮮半島からの渡来人によって、もたらされた蘇塗信仰は熊野の
国に根付き、伝統的な信仰として保持されてきた。中世に熊野信仰が隆盛を
迎えると変容し、神仏習合の信仰として現代に至っている。



・「高塚の森」


 串本町潮岬に高塚の森と呼ばれる古代の祭祀遺跡がある。
安井 良三博士の見解では、五世紀頃の太陽祭祀遺跡であろうとのことであ
るが、以前から古墳説が根強く語られていた。それは、神功皇后の侍従が埋
められたという伝承があるからである。確かに、甘南備型の地形は円墳を思
わせるが、日本書紀には神功皇后が熊野地方を訪れた記述がないから、これ
は住吉の神を奉じた瀬戸内海の海人たちが広めた伝承であろう。高塚という
地名は、古墳を意味するから、古墳説が定説であった。しかし、古墳とする
と古墳を築造する権力を有する豪族が潮岬に存在したかというと、肯定でき
ない。つまり、豪族の墓とするには、生産力が低く、有力者が発生したとは
言いがたい状況である。
 次に祭祀遺跡説であるが、昭和44年に「高塚の森調査委員会」が発足し、
以下の見解をまとめた。

 ・名称を潮岬太陽祭祀遺跡とする
 ・遺跡の構造は、岩座、祭壇、斎庭、斉場、司祭の道よりなる
 ・面積は28000平方メートルで、禁足地である
 ・築造は3世紀末、神武比定の人物である
 ・祭祀は太陽神の昇天をみはからっておこない、夏至のころが太陽の
  勢いが強い
 ・司祭王が祭祀を執り行い、岩座に降臨した太陽神と神人一如となる
 ・短期間の祭祀場であった

 高塚が太陽祭祀遺跡という見解には、異論はない。しかし、これを神武
東征と結びつけ、高塚を建国宣言をした場所というのは、飛躍した結論で
あろう。というのも、古事記や日本書紀にハツクニシラススメラミコトと
して登場するのは、神武だけではない。物部系のニギハヤヒや崇神天皇も
ハツクニシラススメラミコトとして登場する。いわば、ご都合主義の産物
であり、信憑性は薄い。したがって、日本書紀の記述と結びつける見解は
、妥当性を持たないと考える。
 では、だれがいつこの遺跡を築造したかを論じねばならない。わたしは
矢倉信仰を朝鮮系の渡来人の信仰と指摘したが、高塚も渡来人が築造した
と仮説をたてている。
 朝鮮半島から日本への渡来の波は、大別すると三波に分けられる。
 第一波は、紀元前三世紀から紀元後一世紀にかけて伽耶・新羅建国に伴
う部族国家民の渡来である。建国により追い出された先住民が安住の地を
求めて倭国に渡来した。かれらは、農耕技術を携えて倭国に広めた。一方、
伽耶や新羅も倭国が、米作の適地であることを知り、国民を倭国に移住さ
せた。古代日本に新羅や伽耶の言葉が多いのは、それゆえである。
 第二波は、四世紀末の広開土王による百済攻撃の結果、王族、貴族、軍
人、学者、技術者が集団亡命した。フルキノテヒトと呼ばれた人々である。
 第三波は、六世紀半ばから七世紀後半にかけての伽耶、百済、高句麗の
滅亡による権力層、学者、軍人の集団渡来である。イマキノテヒトと呼ば
れた。いかなる理由によれ、亡国の国民ほど悲惨なものはない。祖国をな
くした人々は、異国の土となる覚悟でいきねばならないのである。そのた
めには、共同体を形成し、相互扶助を行うためには、集団を結束させる祭
祀が必要だ。私は朝鮮半島南東部の「蘇塗」信仰が、その役割を果たした
のであると考える。
 高塚の太陽祭祀遺跡は、三世紀から四世紀頃、伽耶・新羅系の渡来人に
よる築造であり、太陽祭祀は「蘇塗」信仰に基づくものである。高塚が禁
足地であり、祭司王は天童法師であり、太陽が天君と考えると符号するこ
とが多い。このように、高塚は建国宣言にかかわる遺跡でなく、伽耶・新
羅系の渡来人による「蘇塗」信仰遺跡であるというのが、わたしの見解で
ある。
 伽耶・新羅系と特定できる根拠は、地名や遺物に求められる。
第一に、熊野地方から出土する土器は伽耶地方のものが多い。また、竪穴
住居も半地下式の松菊里遺跡(伽耶地方)と同形式のものが出土する。
 新宮市の明日香遺跡などがそれである。
 第二に、串本、波田須などは、古代朝鮮語で串は岬、波田は海を意味す
る。熊野市波田須は、徐福の渡来伝説が残っているが、実際は新羅系の渡
来人の根拠地である。熊野市有馬の花の窟神社の祭祀は、「蘇塗」信仰そ
のものであり、伽耶・新羅地方に広く分布するものと類似している。
 したがって、伽耶・新羅系の渡来人が3、4世紀ごろに渡来し、一族の
共同祭祀場として高塚を築造したが、その後各地に祭祀場が設けられたた
め(矢倉信仰遺跡)放棄されたが、アジール(聖域)としての機能が残っ
たというのが潮岬太陽祭祀遺跡に対する私見である。祭祀が短期間に終わ
ったのは、以上の理由と推測している。
 潮岬太陽遺跡(高塚の森)についての私見をまとめると、以下のごとく
になる。


 ・3,4世紀頃、朝鮮半島南部の伽耶・新羅地方の渡来人によって築造
  された(物部系阿刀氏ではなかろうか)
 ・「蘇塗」信仰に基づく太陽祭祀遺跡である
 ・熊野地方の渡来人の共同祭祀場であったが、各地に矢倉信仰が普及す
  ると役割を喪失した
 ・ただしアジール(聖域)としての機能は残り、のちに高塚の森という
  禁足地になった(御崎会合が潮岬で開かれたことの一因か?)
 ・建国神話とは無縁である
 ・熊野地方の地名には古代朝鮮語によるものが残っており、遺物や遺跡
  にも朝鮮半島南部のものと類似点がみられる
 読者諸賢の御教示を賜れば幸いである。



・「玉石信仰」


 熊野地方の矢倉信仰の神社を訪れてみると、奇妙な共通点に気づく。玉
石あるいは丸石という球形の石が安置されている。大きさは、さまざまで
熊野市有馬の花の窟神社や那智飛龍神社の丸石は直径1メートル以上ある。
古座川町春日神社の丸石は直径30センチメートルくらいの小さな石であ
る。どれも神体として主役でなく、脇役のように思える。花の窟の丸石は
参道の左側に置かれており、那智のそれは右側にさりげなく置かれている。
敬して遠ざく扱いである。
 しかし、すべての丸石が脇役かといえば、さにあらず。奈良県十津川村
の玉置神社の丸石は主役であるし、現在でも信仰が厚い。玉置神体巻外古
文書によれば、

 崇神天皇、王城火防鎮護と悪霊退散のため、早玉神を奉仕され、以後玉
置と名づけられた

とあり、丸石が神体とされた由緒を記述している。しからば、丸石をなぜ
ハヤタマと呼ぶのかが、問われねばならない。私はハヤタマは、古代朝鮮
語であると考えている。李 寧煕氏の「枕詞の秘密」によれば、ハヤは岩、
タマは王を意味する古代朝鮮語であるという。ハヤタマは石の王者を表す
のである。天皇の身体を玉体と呼ぶのも、古代朝鮮語の流れである。この
ように、ハヤタマには石の王者という意味がこめられ、原初的信仰の神体
として崇敬されてきた。熊野の本宮大社、熊野の速玉大社の神体も、原初
は丸石だったと推測しているが、いかがであろうか。
 丸石が神体としての役割をなくしていったのは、仏教の隆盛や663年
の白村江の戦い以降の「日本化」の流れの中で、朝鮮半島の匂いの消去と
いう意識改革のゆえであろう。半島系の姓名を和風の姓名に改める動きの
なかで、宗教改革がおこなわれ、熊野御毛野命や速玉の大神や熊野牟須美
の大神が創出されていった。韓神が大和神化したのである。そうなれば、
主役から脇役に格下げされ,脇にまつられたのが丸石である。
 しかしながら、民衆は丸石を見捨てず様々な形で信仰してきた、前記の
丸石以外にも、本宮町船尾谷の乳房石、本宮町湯の峰の小栗判官の力石、
那智光が峰遥拝所の光石、那智色川の丸石、那智浜の宮の力石、那智色川
神社の丸石、熊野川町高倉神社の丸石、新宮市高田の高倉神社の丸石、串
本町の徳大明神の丸石、同じく矢倉神社の丸石などは地区民の信仰の対象
となっている。身近な地主神としての役割をはたしている。氏名にも玉置、
玉石、丸石など丸石信仰を示すものが残っているが、「丸石信仰は死なず」
という証左であろう。
 丸石の変わった使い方として、道祖神的使用法がある。三重県大峪峠に
は、峠の頂上に丸石が置かれている。これは、後世に丸石が玉石と呼ばれ、
玉が霊と解釈されたからであろう。霊はタマと解釈され、四つの役割が与
えられた。すなわち、満足玉(たるたま)、生存玉(いくたるたま)、道
反玉(みちがえしたま)、死反玉(まかるがえしたま)の四つで、それぞ
れ満足、長寿、防災、再生などを祈願する信仰になった。峠に置かれたの
は、災いや疫病が村に侵入するのを防ぐ意味があった。
 かくして、半島の渡来人がもたらしたハヤタマ神は支配層には棚上げさ
れたが、民衆層には支持され今に至っている。



・「金精さま」


 金精神は男根に似た石や樹木、張り型を神体として信仰す
るもので、起源は古く縄文信仰に遡るといわれている。江戸時代までは、
日本各地で信仰され不妊治療や性的不能の治療を祈願されていた。特に、
遊郭では
商売繁盛の神として、厚く信仰された。ところが、明治維新の1868年、
明治政府は廃仏棄釈令を出して、金精信仰を厳禁した。各地の祭りも禁止
や変更を余儀なくされた。淫風撲滅の宗教政策は、山伏や熊野比丘尼の追
放にも及び、近代国家建設の国家理念のもとで金精信仰は壊滅したのであ
る。
 と思ったが、民衆の抵抗は水面下で続き,ひそかに信仰され続けた。宮
崎県小林市に行った時、陰陽石を見たのであるが、その雄渾さに驚いた。

 語るなよ 誰が問うとも 川中の 陰陽石の 姿形を

 という、吉井 勇の歌碑が建てられたいた。語るなよ、という助言を無
視して語ると、高さ20メートル近い陽石の下部が高さ4、5メートルの
陰石にな
っている。一体の石柱に陰陽二体の性器があらわれているという、まこと
に珍奇な光景だ。まるで、彫刻家のいたずらとしか思えないできばえであ
る。造化の神の才能は、まさに神秘的であり、脱帽以外にない。
 しかし、驚いたのは近くに結婚式場がつくられ、利用が多いことである。
不便な場所につくられた結婚式場が利用されるのは、金精信仰が続いてい
るからである。民衆の信仰は、国家権力の弾圧では消えないことの証拠で
ある。
 では、熊野の金精信仰はどうなっているのか。立派に生きているのであ
る。
 白浜町阪田に、阪田祭祀遺跡がある。1300年前の祭祀遺跡といわれ、
男女の性器が岩壁に彫られて神体とされ、ひもろぎ形式をとどめた祭祀場
となっている。熊野地方では、7世紀頃には陰陽信仰が成立しており、そ
れが、2008年の現在も続いている。「金精は死なず」といったところ
か。
 陰陽信仰は新宮市三輪崎の鈴島の陰石と陽石、新宮市神倉山のゴトビキ
岩、花の窟神社の陰石と陽石などにみられるが、わたしは矢倉信仰に形を
変えて、熊野地方に広く存在すると考える。滝は女陰の象徴であり、樹木
や立岩は男根の象徴だからだ。玉石も睾丸の象徴であろう。
 明治政府の弾圧を避けるために、金精様は矢倉信仰に変形して各村むら
で生き延びていたのである。「隠れ」キリシタンや「隠れ」念仏のように、
権力の弾圧は成果を生まず、事態を混乱させるだけであった。
 かように熊野信仰は熊野の自然そのものを神として、民衆の信仰として
継承されてきたのであるが、信仰の国家統制は決して成果をあげない。信
教の自由は保障されねば、ならないのである。