・「イヤメンガ」 

  古座川川丈の集落では、農耕・運搬用に牛を使用した。この牛は富田の牛
 市で子牛を仕入れ、成牛に育てるのである。熊野村、面河村産の子牛が上等
 とされ、イヤメンガでなけりゃ埒があかんといわれた。
  古座川筋の物資の運搬は中湊から真砂までは平田船である。帆と櫓では進
 まず、曳き子と呼ばれる人夫が綱で曳き進めた。この作業はつらくて重労働
 であるから、冬でも汗がふきでたという。古座川の川岸には曳き子の歩いた
 道が少しだが残っている。曳き子は重労働の故か50歳以上は生きられない
 と、言われた。また、食事も交替で手早くするため胃病が曳き子の職業病だ
 ったそうだ。
  真砂から奥の集落までは牛車を使ったのである。山道は坂が多いので、馬
 より牛の方が持久力があるため適していた。山仕事で生産した薪炭を牛車に
 積んで真砂に運び、真砂で食料や日用品を購入したのである。川湊から牛車
 までの運搬は「いただき」といって、頭上運搬であった。米一俵(65kg)
 担げないと真砂の嫁はつとまらないといわれた。さぞ、首が太くなっただろ
 うと同情してしまう。今時の娘なら、逃げ出すのは確実である。
  川湊の真砂は「真砂百軒」と呼ばれるほど物資の集散が活発で、銀行の支
 店や郵便局がおかれていたから、山村でなく町的集落だった。理髪店が営業
 していたくらいである。このように古座川上流の山村では川船と牛車が物資
 運搬の主力であった。中世の馬借・車借の運搬方法が戦後まで残っていたの
 である。しかし、国道やスーパー林道が整備されると、物資運搬の主力はト
 ラックになった。川舟の曳き子は失業し、コッテイ牛もお役御免となった。
 真砂百軒も旅館が廃業し、曳き子も立ち去り、元の山村に戻ってしまった。
 旅館跡には桧が植えられ、風のそよぎが兵(つわもの)たちの夢の跡を物語
 っている。  


・「牛の道」

  この農耕・運搬の主力であるコッテイ牛も歳をとり、役にたたなくなると
 廃牛として牛市に売られた。これを「富田落ち」と呼んだ。「富田落ち」に
 なった廃牛は、古座川を立合で渡り、峰山を登って南平に下り、里川で一泊
 した。二日目は大鎌、防己、獅子目峠を越え、小河内を経て、周参見で一泊
 。三日目は太間川から仏坂を越えて口ヶ谷、安居の渡しから三ヶ川、富田坂
 を越えれば富田の牛市である。
  この「牛の道」を通れば、海岸の道より一日は短縮できるので、昭和の初
 めに県道が整備されるまではよく利用された。牛市で競売された廃牛は、飼い
 主と別れるとき、悲しげに一声鳴いたそうだ。家族同様に可愛がった牛と別
 れる飼い主の心情はいかなるものであっただろうか。


・「田掻き牛」

  古座川に限らず、熊野の川丈の集落では「田掻き牛」という牛の競技が大
 人気であった。これは牛の操作技術を競うパフォーマンスで若者たちが熱狂
 した。
  田植え後の農閑期に各地区の篤志家が競技場の田圃を提供し、田掻き牛の
 競技が始まるのである。牛の角に赤や黄色の布を巻き、ブラシをかけて毛艶
 を良くし、馬鍬をつけて田圃の中を引いてまわる。隅返し、本鍬引きなど飼
 い主の技量がためされる。最後は馬鍬を宙に浮かせてパッと走るのである。
これが飼い主の晴れ姿で、見物衆のやんやの喝采を浴びた。日本各地に残
 る闘牛は牛同士を格闘させるものが多いが、田掻き牛は格闘より飼い主の農
 具の操作技術を競う競技である。牛に愛情を注いだ競技として、私たちは誇
 りに思ってよいのではないか。
  かくして隆盛を誇り観衆を熱狂させた田掻き牛も、昭和30年代より農耕
 牛が減るにつれ衰退し、耕運機が導入された40年代に姿を消した。今では
 熊野の民芸品にその姿を留めているに過ぎない。