・「名も知らぬ遠き島より」 


  1999年、日本の金融界が恐慌状態に陥っていたとき、潮岬中学校陸上
 部は呑気に練習に興じていた。坂道発進といって、谷の浜へ下りる坂道をダ
 ッシュするのである。休憩で浜で石投げをしていると、東君がココヤシを見
 つけた。ココヤシは自然林の北限が台湾にあり、フィリピンのルソン島がコ
 コヤシの本場である。台風で吹き落とされたヤシの実が、黒潮に乗ってはる
 ばる潮岬まで漂着したのだ。壮大な黒潮での移動である。
  黒潮は平均分速60Mといわれている。時速3.6KMだから人が散歩す
 るくらいの速さである。ルソン島と潮岬は直線距離で約2000KMあるか
 ら、単純計算しても555時間、23日くらいで到着する。実際は30日以
 上かかるだろうが、予想外の速さである。
  名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実はロマンを運んでくるが、実利も
 運んでくる。1990年の台風19号は熊野地方に大被害をもたらした。潮
 岬中学校の屋根瓦が飛んで教室のガラスが破れ、教室が水浸しになる有り様
 だった。その時、中学校の下のきさばの浜にラワンの大木が漂着した。直径
 1.8M、長さ20Mの巨木であった。フィリピンの貯木場から流失したの
 であろうが、このような大木は「木つき」といって、カツオやマグロの回遊
 魚を連れてくる。漁師は沖合で、流木を見つけると大漁旗の準備をするとい
 う。その下には、魚のナブラ(群れ)がいるからである。きさばの浜の大木
 は、さぞや魚のナブラを連れてきたに違いない。流木が魚たちに、「旅は道
 づれ、世は情け。連れもていこら。」と、いったかは分からないが、流木は
 次の巨大台風で海に戻っていった。今頃は魚を連れて太平洋を漂流し、黒潮
 の贈り物を漁師たちにプレゼントしていることだろう。 



・「糸満漁師」


  黒潮が運んできたのは、漂流物だけではない。この海の高速道路を利用し
 て、人が往来したのである。柳田 国男は「海上の道」で米の伝来や海洋文
 化の伝播を提起したが、今の文化人類学や植物学の研究成果はその仮説を実
 証した。大学者の直感には、脱帽の外はない。
  潮岬では、戦前、糸満漁師が往来した。糸満は沖縄南端の漁村で、漁師た
 ちは刳り舟で東南アジアから日本まで出漁したという。刳り舟に帆柱をたて
 、アウトリガーという横木をつけ、それにフロートを装着すると船は安定す
 る。大波でも転覆せずに乗り切れるのである。
  糸満は東支那海に面しているが、実は黒潮は太平洋側でなく、東支那海側
 を流れている。この流れに乗って、良風に恵まれれば、数日で潮岬に到達す
 る。以外と近いのである。
  戦前の潮岬はオーストラリア木曜島への出稼ぎに、若い男性が根こそぎ行
 ってしまい、女村という状態だった。岬節に、

  ♪唐へ唐へと草木もなびく あとの残るは甲斐性なし(唐は外国)
  ♪四千マイルの木曜島も 潮岬と水続き

 と、あるように、猫も杓子も出かけたのである。そこに、糸満漁師がやって
 きたのであるから、もてないはずがない。若い漁師たちは、夕食や風呂を馳
 走され、楽天生活を送ったという。
  もっとも、糸満漁師は季節的労働で、季節風が北西に変わる前に帰った。
 帰路は側流を利用し、潮岬から室戸岬、足摺岬、佐多岬、トカラ列島、奄美
 諸島を伝って帰った。このコースは中世の補陀洛渡海のコースと同じで、渡
 海上人の何人かは南西諸島に漂着している。このような交流があった糸満漁
 師も、太平洋戦争が激しくなると徴兵されて来なくなった。代わりに戻って
 きたのが、敵国オーストラリアで資産を没収され、収容所生活を送っていた
 岬男たちだった。ルックサックひとつで帰った男たちを待っていたのは、次
 の岬節である。

  ♪洋服姿で帰って来たが おっと忘れた千両箱(岬男)  
♪月に五十両取る人よりも 肥え桶かついだ人がよい(岬女)



・「レッドウッドの遥かなる旅路」


  今から120年ほど前、串本町有田の稲村崎に巨木が漂着した。直径が大
 人の背丈より高く、日本にない樹木なので議論百出したが、北米大陸産のレ
 ッドウッドではないかということに落ち着いた。レッドウッドは、アメリカ
 合衆国のオレゴン、ワシントン州に生育する 針葉樹であり、巨木になると
 100Mを越すという。しかし、合衆国西海岸からどのようなコースで漂着
 したのだろうか。
  帝国書院の海流図から類推すると、アメリカ西海岸からカルフォルニア海
 流が南下し、北赤道海流に接続して西に向かい、フィリピン沖で日本海流に
 接続して北上するという地球を半周するという行程を辿った末、串本町に漂
 着したのである。串本沿岸に至る確率は何%だろうか。極めて稀であること
 は確かである。
  その貴重な巨木を有田の住民は、串本の資産家である神田 清衛門家に贈
 呈した。神田家が、凶作のとき有田住民の世話をしてくれたので、御礼の意
 味があったようだ。神田家では早速造作にかかったが、大層な準備になった。
 大阪に人を走らせ、潮出しする風呂や製材する大鋸を注文する。そして、大
 鋸職人を雇って巨木を板にし、潮出しを繰り返す。長い手間暇を掛けて製材
 した材木で建てられたのが稲村亭である。 
  稲村亭は、十畳と八畳の二間だが、その柱や壁はもちろんのこと、障子の
 桟や茶箪笥、衝立に至るまで一本の木で作られている。その造作は見事であ
 るが、神田家の心ばえの見事さの反映ではなかろうか。